ダンスの天地
アーカイブ
インタビュー
批評

第0回

第1回

竹田真理

90年代後半に活動を開始し、2000年より関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等を執筆。ダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。

冒険者たちへ
 

ダンスの快楽は多くの場合音楽と結びついている。鼓動と同期するリズム、感情の起伏に即応するフレーズは、踊り手、観客の双方を身体の内側から揺さぶる。優れた舞踊手の演技を見る時、私たちは、音楽に合わせて踊りが踊られるのではなく、踊り手の身体からこそ音楽が生まれ出る瞬間を目にする幸福を噛み締めつつ、舞踊と音楽が同根の芸術であることを知る。古代ギリシャにおいて詩、音楽、舞踊、演劇がムーシケー(=学芸)として括られて以来、ダンスは時間とともに現れては消える上演芸術の系譜に置かれ、創造行為の主体(踊り手)と成果物(踊りという現象)とが不可分の関係にある芸術の分野としてその歴史を紡いできた。この主客分離の困難な分野においては、踊り手の身体から生まれた成果物であるダンスを鑑賞の静的な対象=作品として身体の外部に置くことは出来ないし、創造される過程においては、ダンスは内的な動機とともに身体と不即不離な形で、いわば自動詞的に現われる。舞台芸術としてのダンスに限らず、村落共同体で伝承されてきた民族舞踊でも、或いはより身近な例ではダンスホールやクラブで踊られるダンスであっても、大地を踏み鳴らす原初的なリズムやグルーヴとよばれる音楽的なノリが、身体に眠るプリミティブな記憶と同期し、或いはその場を一体感ある恍惚状態に導くといった場面は多い。音楽にのり躍動する身体の主と客、内と外の境界を限りなく曖昧にしながら、ダンスは本能に根差した発露であるという実感を私たちに抱かせ、人類の誕生とともにある根源的な芸術であるとの言説を生んできた。
その自動詞的な、存在と不可分な現れとしてのあり方からダンスを切り離し、踊る身体の外部に思考の対象として置いたとき、舞踊史の外へと出ていくダンスの挑戦があるのだと思う。「ダンスの天地」に出演したダンサーたちは、それぞれがたった一人でこの未踏の地に踏み出した冒険者といってよく、コンテンポラリーダンスがスタンダードな方向を向いていると感じられる今日(それにも必然があり尊重されるべきことだが)、個々の実践を通して批評的な視点を提出し得たといえるのではないか。出演の6組のうち4組までが自らを振り付け踊るソロダンスであったことも、踊りという行為・現象の対象化について考えさせられるきっかけとなった。言い添えたいのは、これらの冒険的なダンスのあり方は歴史や系譜では語れないということだ。音楽を離れ、ダンスを他動詞化する、いわばダンスについてのダンスを思考する実験は、ポストモダンダンス、或いはそれ以降の展開において試みられてきたことではある。だがそれらは引き継がれ、系統立てられるものではなく、先人が既に通った道であることを理由に、現在の切実さから生まれる試行が価値を失うことはない。すべてのダンスの冒険者はそのつど未踏の地に立っており、それぞれが孤独な探求に踏み出すのであり、舞踊史から遠く離れた常なる今を生きることになる。
以下、上演順に個々のダンスを振り返る。

 京極朋彦『DUAL』は自身のからだをぽんと遠くへ放り、距離を置いて眺めているような俯瞰した眼差しを感じる作品だ。暗転なし、無音のまま舞台に入ってきて、すっと片足立ちになる。さりげない始まりだが一瞬で舞台の空気を掴む。そこから床上の動きに入り、背で床に接地しながら、身体の中に動きの自然な流れを探っていく。削ぎ落とされた身体からは骨格の様子が手に取るように分かり、たっぷりとしたTシャツをまとった姿には、体に風を通すような素朴で開放された印象がある。弦の音とパーカッションによる控え目な音楽が入り、ムーブメントではなく構造を探る飾り気のない動きに寄り添う。床での横臥、四つ這い、直立。照明を落とした舞台の中央で、サルを真似たような横跳びで大きく円周を周り、円の中心で垂直のジャンプを繰り返す一連の流れは、背骨をもった生き物の進化の過程を辿るものだろう。静かなトーンで進む作品の中で、ここはダイナミックな運動性が前面に出る場面だ。 浮かび上がるキーワードは「骨」である。身体の屋台骨、あるいは乳白色のカルシウムの固まりとしての骨。とりとめなく配置されるかに見えた動作や姿態は、このキーワードのもとにすべて意味あるものとして映り始めた。動きの合間にふと身をかがめ、両の手指をピアノを弾くようにぱらりと床に落とす。指が乾いた音をたてると、骨の欠片が鳴るかのようで、手指の関節の複雑な作りと物質感が伝わる。両手を拳に丸め、足指の甲の側で接地し、四つ足でくっきりと立つ姿には、博物館に展示された太古の動物の骨格が連想される。
骨が語るのは悠久の時間だ。肉体が朽ちても残る骨は、一個体の生のスケールを超えた異なる時間を湛えている。一方、筋肉は徹底した今の時間に属する。また、骨が不随意の構造であるのに対し、随意に動く筋肉は意志と力に結び付く。京極朋彦の自作の上演を見るのは久しぶりだが、以前の京極が抜群の筋力とバランス感覚で自らの身体を完璧にコントロール下に置き、例えばソロ作品『カイロー』では孫悟空さながらのやんちゃさで躍動感あふれる舞台を作っていたことを思うと、今、目の前にいる京極は静かに身体の声に耳を澄ませ、本質へと分け入っていくダンスを志向しているように見える。筋肉から骨へ、筋肉が司る力と意志の踊りから、骨の語る記憶と構造の対象化へ。それは身体の内側に他者を見出す試みと言ってもいいだろう。骨の欠片をころりと転がして眺めながら思索するダンサーの姿が目に浮かぶようだ。仮に身体の表象を組織別に見るとすれば、皮膚は世界との界面であり、自己とそうでないものを分け隔てる。筋肉はみなぎる生命力や官能の発露であり、意志と力に関わる。内臓は奥底に抱え持った衝動や欲望の源泉であり、これらはコントロールを超えて表出し、時に自らを裏切る。そして骨はこれらがすべて消滅した後も存在し続け、かつてあった生の記憶を異なる時間に届ける。皮膚が世界に対して閉じた身体は、骨によって外へと開かれるのかもしれない。京極の垂直ジャンプは上へと向かう力と同時に降下時の脱力を含むが、重力に委ね、崩壊に甘んじる不随意な局面を持つことでむしろ、開口部のたくさんある開かれた身体、コントロールの自在さとは別の自由な身体を得つつあるように思える。
跳躍の場面に限らず、削ぎ落とされ、隅々まで開拓された身体は、細やかに動作や姿態を連ねる。ランダムに繰り出されるようでいて、構造を把握し、身体のエコノミーにかなった動きには無理や無駄がなく、何をどう動いても面白い。音が止み、光の中で両手を水平に上げた十字のフォルムの彫像的な美しさ。それらを時間という制約の中で、刻々と実らせていく。けだるいジャズが流れるが、決してリズムやグルーヴに身体を預けるのではなく、外の眼で身体を眺め、観察し、対話し、思考する過程としてのダンスがある。もう一度自然光に戻った舞台を、ゆっくり歩いて下手に去っていくが、去り際に不意に振り返り、頭に手を乗せ、ひざを折ってしゃがみ込む。その瞬間照明が落とされるのだが、このラストシーンは言葉に尽くし難い。なぜ振り向いた、なぜ手を頭に、なぜしゃがみ込む、どこにも理由はない。ただそのように振る舞う身体がそこに居たという単純な事実が、鮮やかな残像となって刻まれている。今思えば、彼は進化の過程の遠い時間に還っていこうとしていたのだが。

 山崎モエ『水のキオク』は動きの質感を一途に追求する作品で、灯りの下の一点に立ち、動きの執拗な反復・持続のみでクライマックスまで昇り詰める。完全暗転の中、音響が低音のリズムを刻み、舞台中央の光の輪の中で、ダンサーの前屈みの身体がうねるように揺れている。柔らかくグラインドしながら左右に波打ち、足元から湧き上がるうねりが体中を伝播する。身体は質感と印象を刻々と変えながら、永久運動のようなめくるめくムーブメントを送り出し続ける。柔らかく、ぬめるような生体的な質感をもつ一方で、動きは電気仕掛けの機械のようなシステマティックな印象も与える。自発的に動くというより、地面から受けた波動が身体の内部を移動しており、始まりも終わりもないエネルギーの流れが、偶然に身体を通り、「動き」に変換されて現れているだけのことにも見える。脈打つリズムに踊り手の自我の入り込む余地はなく、情緒的な要素も一切排除されている。一つの方法論の追求が作品の強い輪郭を作っている。
タイトルから「水」のイメージの作品化だと分かるが、生命の源などといったありきたりなイメージではない。鼓動のような低音のリズムや金属の重いノイズなどの音響が不穏な気配を醸していて、人間の身体とは異質な何か、スケールの異なる大きなものの存在が暗示される。ダンサー自身の短いテキストに「体内、胎内」と「地球」を繋ぐものとしての水が語られている。生物と鉱物の間にある水、それ自体では形を成さない水、絶えざる流れとして現れる水。地層に重く堆積し圧縮されたエネルギーと、地質学的なスケールの時間を湛えて現在に流れ続ける水は、踊る身体を絶え間なく動かす力の暗喩にもなっている。
ノイズがいっそう軋みを増すと、身体は痙攣的な振動を見せ始める。もはやリズムは消滅し、動き自体がノイズと化して一つの頂点を迎える。だが動きに特化された本作が本当の展開を見せ始めるのは、終盤で初めて光の円の外に出てからだろう。円の周囲をスタスタと歩くのを見て、これがある種の「破れ」であり、ここまでの踊る身体を相対化するように思われたが、真意については本人に聞いてみたかった。

  大熊聡美『苺ミルクの妖精になりたい』はダンス以外の語る内容を持った作品で、心理や感情、内面性や社会性、もしかしたら政治性にも関わる内容を扱い、小道具を用いて様々な表象を組み合わせ、主題を浮き彫りにしていく。
舞台には白いぬいぐるみが一体。ダンサーは爪先立ちでバレエのパ(ステップ)を細かく刻みながら登場する。スカートを両手でつまみ上げ、その上にたくさんのキャンディを盛っている。ジャパニーズ・ロックがベタな歌詞で愛や青春をシャウトし、ダンサーはバレエの語彙を用いて多幸感を全身で表現する。その表情は奇妙に過剰で、菓子を床にぶちまけた瞬間、驚いたように息を呑んで両手で口を覆い、しばしフリーズする。ここから踊りは暴走し、徹底的に破壊される。腕をぐるぐる振り回し、身体が高く上へ伸びたと思うとオフ・バランスからバタリと倒れ込み、床を転がりヒコーキのポーズに満面の笑顔。バレエを意味やパのつながりから解体しパロディ化していくのだ。いびつに硬直する指先、ガタガタと震えるアラベスク、音を立ててシコを踏む足など、カリカチュアライズされた動作や表情はある意味見栄えがするが、次第に踊り手が内に抱える葛藤や苦悩が垣間見えてくる。
ここまではいわば前段で、ここから息詰まるようなパフォーマンスの核心へ入っていく。ダンサーは手元にあるバスケットの中から紙パックの牛乳とグラスを取り出し、床の上で静かに牛乳を注ぐ。続いて両手いっぱいの苺を掴み出し、手で押しつぶし、牛乳の上に果汁を滴らせる。何かの儀式のようでもあるが、苺にまみれた手は血で汚れたようにも見え、その手を掲げ見るダンサーは恐ろしいものを見たという表情をする。立ち上がり、その場で身を返して一回りすると、今度は指先を牛乳=苺ミルクに浸し入れ、せつなげな表情で腕に液体をなすりつける。また一回り。このサイクルを何度か繰り返す。白と赤の液体は性的なイメージに繋がり、儀式のような所作には性にまつわるイニシエーションの類が連想される。生々しく、痛みを伴い、もはやイノセントでいることはできない自らを受け入れていく過程で、不安や葛藤が彼女を苛む。背後には無垢と幸福と懐かしさの証のぬいぐるみが置かれ、手前には自身のセクシュアリティを象徴する「苺ミルク」がある。二つのアイコンの間で交互に身を返しながらパフォーマンスは繰り返される。「苺ミルク」は身体的な性のみならず、性を介して結ばれていく関係性を暗示し、そこに含まれる支配や抑圧、暴力の予感もまた彼女を恐れさせる。因みに性を介した関係性とは公私にわたるものであり、女性であるがゆえに社会が強いる困難を含む。ダンサーは手についた液体をぬいぐるみになでつけ、大切にしてきたものに別れを告げる。何度目かのサイクルで少しだけ身をかがめ、慄(おのの)くような白鳥振りをみせる。美しく、悲しみに富んだ羽ばたきだ。
終盤には、自身の胸を切りつける、目を突くなどのショッキングな自傷的仕草があるが、その中で腕を右へ、左へと大きく広げ窓を開けるような動作が、このサイクルからの解放への希求を感じさせた。衝撃的なのは自身の目を突いた人差し指で客席を指差す時。自傷が他者への反撃に転じ、誰一人、彼女に痛みを強いた罪を免れる者はいないのだと鋭く問う。
自身の身体性に根差した存在の切実な叫びが見る者を強く揺さぶる内容で、とくに#Me Too運動や女性の置かれた社会的な状況に声が上げられた現在、本作はこれらの声と大いに共振するだろう。フェミニズムの視点からも、また政治的にも読まれ得るが、何より痛みや葛藤、切ないほどの憧憬といった自らの内面を衒いのない直球で表現していて胸を打つ。多くの人に届いてほしい作品である。

高瀬瑤子『シンタイカする器官』は、ダンスの規範や美意識の外に出て徹底した外部の眼で身体を見つめ直す。ダンスが成立するか否かのエッジに立っている。
舞台中央の灯りの中に、逆さに突き上げられた足が照らし出されている。ライトが照らすそれは、例えばブロンズ彫刻のような不定形で抽象的な物体にも見える。前半は床に背を着けた姿勢からの足の動きが続く。空中で180度以上開脚した脚は、鍛えられた身体の強さとしなやかさを印象づけ、ライトの作る陰影は筋骨の隆起を露わにして、肉体の物体感、量塊感を伝える。足の指が奇妙に動くと、そこだけが別の生き物であるかのように映る。左右の脚が交差して立ち上げられ、それが下ろされ、足先が床を小刻みに打ってパタパタと音を立てる。意志のない器官が勝手に動くかのような奇妙な感覚だ。これらは確かにヒトの足なのだが、舞台の上では一個の有機物の固まりであり、床を打つ爪先も、交差する脚も、それ自体は意味をもたない。というより、従来の意味の網目の外の、なんら比喩も見立ても通用しない世界で、単純で純粋な物質の量塊としてそこに在る。
タイトルの「シンタイカ」は「身体化」のうえに「進化」、「退化」を重ねたものか。身体各部位は内的なつながりによって統制された全体感を欠き、それぞれが独立した物体感を示し、互いに関係し合う必然性がない器官どうしである。だから臀部は二つに割れた筋肉の山で、それぞれのすそ野が開脚した足に続いているというように、ただ外観によって記述されるほかないようなモノとして身体がある。ある意味過酷な、むき出しの物質の領野で、意味や機能や美学を引き剥がし、全く違った配置による身体の概念、イメージを見ようとする。バレエやモダンダンスを習得しキャリアを重ねてきたダンサーが、それまでのダンスの規範を脱し、別の領域に出ていく身体のあり様を探っている。
剥き出しの物質の世界で、身体のあり様を決定していくものは、それ自体が闇を貫く理知であるような真っすぐに伸びる脚、或いは骨格の作る軸や柱の造形性だろう。後半では動きが出てくるが、そこでもアスリートを思わせるしなやかなバネ、鋼(はがね)の筋肉や骨格の作るアクロバティックな造形が、「カラダはこのような形になり得るのか」という驚きを与える。あり得ない捩じれを見せる肉塊が、見たことのない、名付けようのない“美しさ”を呈している。

下村唯(SickeHouse シッケハウス、音楽:仁井大志)『亡命入門:夢ノ国』。台詞やコントを採り入れたコメディ調の作品で、日本人の下村、アフリカはトーゴ出身のアラン・スナンジャ、日本国籍だが台湾在住が長い伊達研人によるトリオである。バックグラウンドの異なる彼ら自身の現実を反映し、アイデンティティやコミュニケーションの構築といった政治性を伴う主題が底流をなすが、等身大の軽妙な筆致で表現しており、カジュアルなダンスシアターといえば近いだろうか。
 木枠をキューブ状に組み立てたオブジェをバケツリレー式で次々と運び入れ、高く積み上げて「家」としたり、「領土」に見立てたりしながら、互いのアイデンティティに纏わるQ&Aを交わし合う。木枠は組み合わせで椅子やベンチに変化し、ダンサーが椅子取りゲームで“領有権”を争うとかベンチの上に寝そべるなどシーン展開のための有用なツールである。ダンスの振付はごくシンプルなもので、アップテンポな音楽を背に、立つ、座る、寝そべる、上体を起こすなどの動作をアレンジしている。動きの質や形態を追求するアーティスティックなダンス作品とは一線を画し、他者や隣人との関係性や社会の諸相といった内容をシアトリカルな方法で描き出していく。下村は「君は誰」「職業は何」「踊ってみてくれ」との声と対話しながらソロを踊り、ここはレクチャー・パフォーマンスの手法をとっている。
3人のユニゾンではヴォーカルの入ったポップスがかかり、並んで肩を寄せ、腕をゆらし、盆踊りのような気安さのある振付を踊る。その気安さ、声高な主張のないカジュアルさが無名の一人一人の人生を寿いでいる。それぞれの場所から来た者たちは、ここからどこに向かうのか。ダンスは旅の途中に差し挟まれた存在論的な問いの時間にもなり得る。現在のところは長編のための習作的な段階のようで、ここからダンスの強度を増すのか、社会的な、あるいは哲学的な(ベケット的な?)アプローチを推し進めるのか、様々な方向性に開かれているだろう。この市民的な価値観に裏付けられた作品に出会えたことは、不寛容に覆い尽くされる今日の状況にあって、尊く、幸せなことだった。

山本和馬『Rehearsal of Heaven』。遠くに舞踏の幻影を仰ぎ見ながら現代の身体を探る。出演者4人は等間隔に仰向けに横たわり、全員白い服を着ている。安置された遺体といったような生死の境界にある身体のイメージだろう。それぞれが異なる部位をごく微細に動かすことから徐々に体を起こし、前屈から背骨を一本ずつ積み上げながら、ようやく4つの身体が立ち上がる。ところがそれぞれの身体は完全に立ち切らず、立ち上げの途中の段階で宙吊りにされたかのように、曖昧な姿勢で、かろうじて立っている状態だ。立てない体がいかに立つか。「全力で突っ立っている死体」という土方巽の言葉を引くまでもなく、およそ舞踊は古今東西、いかに立つかを巡る技術と思考の歴史だとすれば、いま現在の舞踊の実践においてもこの命題は問い続けられているはずである。4人は骨格が重力を合理的に吸収する「直立」という立ち方をはずれ、いかに重力に抗い、転倒を免れ、天上と地上の間の領域に身体を留め置くことが出来るかを、瞬間ごとに自身の身体を調整しながら試みている。これはかろうじて生きるということと同義であり、生死の境界における生存のための技術を4人はそれぞれの身体で探っていくのである。足裏の接地点が絶えず移動し、上体が弾んだり、浮遊したり、あらぬ方向に引き寄せられたり、あたふたと身を返したりしながら、重力との定点なきバランスを生き延びる。和太鼓の低音のリズムが4人をあおり、空間の圧が高まるのにつれ、「立てない」という危機をどう生きるかの命題が切迫感を増していく。振付があり、リハーサルを経ての本番であるはずだが、今のこの舞台がサバイバルの現場そのものであるような臨場感、即興感のあるパフォーマンスである。リスクを負って舞台に立つこと。今回のショーケース全体を貫いた精神だろう。

中村徳仁

(神戸大学批評誌『夜航』)神戸大発の批評誌。半年ごとの雑誌刊行と、関西の人文学系のイベントへの参加を行なっている。

自己言及からの逃走―「無―自由」の領野にむけて
 

 今回の公演ではじめてコンテンポラリーダンスを鑑賞する私のような初心者にどのようなことを書くことが求められているのか。おそらく、多くの人がコンテンポラリーダンスを語ることに躊躇してしまう最大の理由の一つは、「これまでの歴史やコンテクストを理解していないから、この作品だけを見ても的外れなことを口にしてしまうかもしれない」という不安にあるだろう。「コンテンポラリー」というからには、先行したバレエやモダンダンスなどへの一種の自己注釈的な性質を持っていると思ってしまう。この企画を聞いた当初、私もそう思ってしまい、自分がこの仕事を引き受けるのに適しているのか疑問を抱いていた。しかし、そこで立ち止まって考えてみたところ、こうした事情は何もコンテンポラリーダンスだけにいえることではなく、ここ数十年のあらゆるアートの分野、そして私の属しているアカデミックな領域にも当てはまることであるように思った。
 20世紀半ばまでは、どの分野にもメインストリームを形づくる雑誌やメディア、分野の代表的牽引者が存在し、それに乗っかるにしても、たとえ反発するにしても、皆が時代時代の支配的な言説を参照することができた。そうした言説を軸に分野を見渡す地図を作製することが容易だったのだ。しかし、現代ではおそらくほとんどの分野がそのような「灯台」を失い、各人が自らの光だけを頼りに暗夜の海を漕いでいかなければならないようになっている。
 こうした多元的な状況は人々に何を強いることになるのか。それは「自己言及」である。「自分のしていることは、こういう社会的文脈や意味を捉えていて、こうしたことに役立つ」とセルフプレゼンテーションをすることが求められるのだ。これはアートやアカデミズムの領域だけの話ではない。自分のしていることがどのように受容されるかを踏まえたメタ視点というのは、実はマーケティングの発想と相性が良い(現代アートの領域なら、村上隆がその好例であろう)。そういったことからも、日本のガラパコス化した就職活動なんかは、強迫的に自己言及を求められる場の最たる例であろう。自己言及の視野とは、自らをいかに商品として市場に提示するのかという戦略なのだ。
 残酷な話であるが、バブル景気をはじめとして、裕福な時代にはこのような自己言及への駆り立てはそこまで存在しない。何かの企画を通すときにも、金持ちの気前のよいおっさんが「おもろい、おもろい、やったろ。なんぼや?」と二つ返事で上手くいくこともあっただろう。しかし、現代においては、その過程を経るのに何枚もの企画書とプレゼンテーションが必要とされる。それを経る中で、何度も何度も本企画の意味を場合に応じて説明しなければならないのだ。全体のパイがこれ以上大きくなる見込みがなく、残りを奪い合うことになると、そのようにならざるをえないのは仕方のないことではあるにせよ。私自身は現代社会が陥っているこの「自己言及への病」を全治癒することは目指してもいないし、不可能であることは従順承知である。問題なのは、「あたかもそのような病があることをないかのように」振る舞いながら、他者に結果的に自己言及を迫るような事態である。
 今回の「ダンスの天地」に最終的に私が参加したいと思ったのは、そうした病を企画者たちが隠そうとはせず、むしろそれに対して真っ向から向かい合おうとしていると感じたからである。それは、今回のテーマである「ダンスの自明性を問ふ」という言葉にまさしく表れている。ここに掲げられたテーマほど、「灯台」を見失った現代という時代の不安を表している言葉はないだろう。
 前置きが長くなったが、これもまさに強迫的に自己言及せざるをえない現代の病を反映しているのかもしれない。支配的な言説が失われた今、私たちは何かを語り始めるときに、つねにすでにその文脈を各人が一から構築しなければならない。そしてそこでは、上述のように私自身が全くダンス固有の文脈に通じていないことも結果的に功を奏するかもしれない。かつて、日本において批評というジャンルを立ち上げた祖である小林秀雄は、「批評とは、竟に己の夢を懐疑的に語る事ではないのか」といった。コンテンポラリーダンスという場を軸に、自らの夢を語ってみたい。

 まず、夜(17時)公演のみに出演した山本和馬・青木晃汰・遠藤僚之介・松縄春香の4名による「Rehearsal of Heaven」について述べたい。本作は途中の暗転を軸に二部で構成されていた。
前半は、4人が床に仰向けになっている場面から始まる。タイトルにあるように、おそらくそこは天国のような場所で、目覚めた4人が各々の仕方で徐々に身体を弛緩させながら起き上がろうとする。右手から動き始める人もいれば、左足の痙攣から一種の蘇生が始まる人もいて、天国での4人それぞれの物語が開始される。しかし、彼らの内誰も直立に立つことはできない。それぞれが身体の部位に何かしらの欠落を抱えており、バランスを保つことができないでいるように思えた。
一度暗転を挟み、後半では一転して、4人はそれぞれ全く違う方向を向きながら無表情に直立不動の状態にあるところから始まる。異空間の秩序に慣れ、ようやく身体の自由を手にしたのかと思うには、その無表情が醸し出す不気味さが気になってしまう。そこで天井から4つの青白い糸のようなものが垂れてくる。4人はそれぞれ、ゆっくりとその糸に引き寄せられるように歩き(歩かされ?)、その天からの糸に触れたものから順に地に崩れ落ちていく。
他の作品の大半がソロであったことと比べても、これがカルテットであるという差異が目立つが、しかし、それが逆説的にこの物語が「死へと向かう人間存在の孤独」を表現し得ているように思えた。本作において、4人は何の統一的な動きも共有していないがために、最初の数分間、観客たちはその不調和に居心地が悪くなり、どこに焦点を絞ろうか各々の関心を自己発見せざるを得なくなる。「一人一人のパフォーマンス」と「4人としてのパフォーマンス」という「部分と全体の循環」が本作の基底にはあるのかもしれないが、その二つを均等に観るということはどこかの一点で断念されるだろう。また、この作品への印象は自分がどこの客席から観たのか、という偶然にもかなり左右される。特に最前列で観た私なんかは、4人が激しく動き始めると、全体を追うことが不可能になり、たまたま気になった一人の物語に知らぬ間に没入していくことになっていた。
私自身は、客席からみて一番右(上手)の演者(青木晃汰)がひたすら執拗に、何かを拾い集めようとしている動きに目を奪われた。勝手な解釈だが、私にはその動きが、生前の未練や失ったものを強迫的に収集して心の虚無を埋めようとしている哀れな死人に見えた。しかし、その印象を手掛かりに全体を見てみると、他の3人も各々の物語の中で何かの欠落を取り戻そうとしたり、トラウマを強迫的に反復したりしているように思えた。
暗転を挟んで終盤に入り、天から垂れてくる糸の演出、そして4人が全く視線を交差させることもなく、自分それぞれの閉じた世界の中で死に向かっていく流れは印象的だった。そして、それをみて前半で私が4人全体の物語ではなく、個人の物語に没入したことが正解だったのではないかと感じられた。タイトルにもあるように、この作品は一種の死への予行演習である。私たちは、眼前にある4通りの生と死のドラマ(4つのパラレルワールド、可能世界ともいえよう)の中から、恣意的に一つの現実を選ばざるを得ない。なぜなら、私たちにそれぞれ与えられている命は唯一なのだから。ハイデガーを引き合いにだすまでもなく、「人間は社会的な存在である」という幻想が一瞬にして崩壊し、ただ剥き出しの個として投げ出されるのは「死」の局面においてである。生が他者依存的で偶然に左右されるのに対して、死は絶対的に不可避な事実である。このテーゼは、第四の壁から向こうの傍観者として安心している観客にも向けられる。つまり、私たち観客もまた、この作品を通して死への予行演習に参加していたのだということが見出されるのだ。
ここで、「自明性を問ふ」という本公演のテーマが、決して演者たちの自己言及を無垢な観客たちが受動的に楽しむというような「消費の対象」ではないということが暴露される。「自明性を問ふ」という問いが、「死」という最も張り詰めた形態と出来事を通して観客の内側に触発され、「問う/問われる」の二項対立は一時的に消失するのだ。この作品が、公演の最後に異化効果として挿入されているのは注目すべきだろう。

「Rehearsal of Heaven」が「死」を題材にしていたのに対し、高瀬瑶子の「シンタイカする器官」と京極朋彦の「DUAL」は「生」をテーマにしていた。ここでいう「生」というのは、20世紀に散々なされた機械文明に対置される「生の発現」といった反動的な意味ではない。むしろ正悪併せ持ち、どこに向かっていくのかわからないような得体のしれない「ナマの生」が現出しているように感じた。
しかし、同じテーマを共有していながらも、その接近の仕方と醸し出される雰囲気は全く違った。まず、高瀬の作品について述べたい。
私の恣意的な区分では、この作品は二段階あったように思う。まず中央に点のような小さな域が光で照らされ、そこには天に突き出された足がある。この両足が、植物かアメーバか、それとも魚か、それは判然としないが、原初生物を思わせる身振りでうごめくところからはじまる。特徴的なのは、交差する両足がそれぞれ別の意志を持っているかのように別々の動きをするシーンである。ここでは、「身体を統御する精神」という二元論が通用せず、ただ何ものでもない未分化な物々の「ざわめき」があるのみだった。前半の約10分は、ここから二足歩行の動物が地に足つくまでの生物史の再現が高密度に凝縮されているといえる。その進化の過程にあわせて、スポットライトはその個体と世界(地面)との関係の複雑化=拡張を表すようにその域を広げていく。
二足歩行の生物が誕生したかに思われた瞬間で、演者が手で地面を強く叩き、音楽が止む。ここに一つの節目があるだろう。ここからが、シンタイカの第二段階であるが、それは明確な切断というわけでは必ずしもなく、原初生物からの進化の過程でタイカ(退化)して完全になくなったわけではない、むしろ遺伝子に記憶された「ざわめき」が二足動物の身体に回帰しているようだった。そこからクライマックスにかけて、身体は世界との関係の調和を手にして、自由でかつダイナミックに飛び回る。ここで音楽が再開する。そして最後の場面では、シンタイカの止まることのない動きの中でライトが消える。それによって、この作品が単なる進化の過程の部分撮りであって、決して結末ではないということが暗示される。
重要なのは、演者である高瀬が執拗に自らの顔を観客に見えないように踊っていたという点である。かつて哲学者の和辻哲郎は「面とペルソナ」というエッセイの中で、私たちがある人間を思い出すときには、彼の肩や歩き方、後ろ姿などは覚えていなくても困らないが、顔面を除いては決してその人のことを思い出す事はできないと述べた。この指摘を踏まえると、高瀬は自らの人間存在としての印象を観客に意図的に与えないようにしているということになる。つまり、高瀬は自らの身体が「全体を統御する人格」としてではなく、「諸器官の群れとざわめき」としてあることを志向しているのだ。表情とは人間の身体において最も情報量とメッセージを含んでいるが、逆にそれが自分の伝えたいことを「伝えすぎてしまう」ときもある。特に舞台のソロでは、観客は演者の顔を追って、「この人はどのようなことを考えているんだろう」と必死に汲みとろうとするが、それが時には演者の表現にとって邪魔になることもある、高瀬はこの罠を回避しようとしていたように思った。

最後に、京極朋彦の「DUAL」について述べたい。本作品も二部で構成されていたように思う。まず冒頭、暗転も挟まずに突然始まるため、スポットライトは全体を照らしたままである。そのため「生物個体(演者)と世界(舞台)の関係」が主題化されている。まず舞台に入ってきて、右足を宙に浮かせて左足とクロスさせる中で、やがて身体の左右のバランスが保たれず、崩れ落ちるところから本格的にこの作品は始まる。そこから原初生物が進化していく様子が再現されるが、高瀬と違うのは、四足歩行の動物が地面と対話を重ねながら、放り出されたこの世界において、いかに自らの存在を意識していくのかということに表現のエネルギーが割かれていたように感じた点である。やがて歩き方、走り方を覚えた猿人?(だと私には思われた)が、舞台いっぱいに駆け回る場面は前半のクライマックスであり、印象的である。ヒトが重力に耐え切れず崩れ落ちるところからはじまり、サルが大地との交渉を経て重力から解き放たれたかのように走り、飛び回るところで終わるといういわば解放の物語が前半であるように私は思った。
後半では、ライトは中央に集中し、演者の身体のみが焦点となる。そこでは外部世界は遮断され、身体との自己対話がはじまることが暗示される。前半が地面、重力、跳躍といったように垂直な動きが目立ったのに対し、後半では演者の身体が流れるように横へ横へと拡張されていくように感じた。片足を後ろに伸ばし、片手を前方へと目いっぱいに突き出す伸縮自在の動きは印象的だった。そして、その横への広がりに呼応して、中央にのみしぼられていた光は、やがて徐々に舞台全体を照らすようになる。別言すれば、点的な個体として舞台にさらされた身体が、横への拡張を通して世界との関係を取り戻していくような演出であったといえよう。
身体の可動域への徹底した挑戦という点では、本作後半の演技の右に出る者はいなかったのではないだろうか。粗雑の誹りを省みずに言えば、前者(高瀬)の演技が身体内に作動する諸器官のざわめきを示すというポリフォニックで微分的なパフォーマンスだったのに対し、後者(京極)の演技は身体と世界の交渉が加速・流動して、やがては一体となる「世界が肉となる」極限への志向だった。

   それでは、以上の説明を経て、私なりのコンテンポラリーダンス全体についての雑感を述べたい。包括的なことを述べる為、多少、議論が抽象的になり、かつ細部を捨象した強引さを帯びることを許してもらいたい。
今回の公演が「ダンスの自明性を問ふ」をテーマに掲げていたことは承知の通りであるが、こうした問答と常に向き合わざるを得ないのが「コンテンポラリー」を冠する表現体の宿命だろう。しかし、私は常々、こうした追求と問答が一種の単なる反動として消費されてしまわないかを危惧する。
例えば、今からおよそ一世紀前、フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、かの有名なアルヘンティーナの舞踊を論評する機会に恵まれた。そこで、ヴァレリーは、舞踊というのが実利的な世界とは切り離された無目的性の表現であって、未だ経済合理性ないしは機械文明によって浸食されていない領域としての身体の価値を称揚した。ここで採用されているのは、薄汚れた機械文明に対置される自然の身体の優位であった。つまり、文明という「内部」に対して身体は「外部」として位置づけられている。こうした文法は、はやくは18世紀のロマン主義の時代(「ここじゃないどこかへ」という標語は、まさしく「外部」への希求であるといえる)から手を変え品を変え、文明批判のためにその都度変奏されてきたものである。特に20世紀は、身体が一種の「自由の最終防衛領域」として様々な分野でかりだされた時代だった。しかし、「内部/外部」という安直な二項対立は、すぐさま「内部=システム」によって飼いならされていく。
例えば、アルヘンティーナの「無重力の身体」が称賛されていた一方で、まさに資本主義の化身ともいえるミッキー・マウスもまた、皮肉にも同時代に「無重力的身体」という現代人の理想の体現者として評されていた。また、身体の健全化を目指して、国民スポーツや野外活動を推奨したナチス・ドイツは、身体をシステムの活性化に利用した最大のスキャンダラスな例であろう。20世紀の歴史を振り返れば、内部を抜け出したかに見えた「どこか」もまた、内部にとどまっていた、という悲劇は、枚挙にいとまがない。
少し大げさな話になりすぎたような印象を与えるかもしれないが、改めてこの話をダンスに絡めて換言するならば、重要なことは、ダンスや身体もまた、「積極的自由への希求」という目標実現の道具へと従属させられることがあるということである。言うまでもなく、道具として従属化しているのならば、それは真に自由といえはしない。こうした不条理は、文化行政に少しでも関わるのならば、常につきまとう一種の罠だと言えよう。
だからといって、私たちは身体やダンスに自由を託すことを断念すべきなのだろうか。ここでもう一度、京極の「DUAL」に話を戻す。先ほどは、京極の作品とその演出について述べたが、私は改めて彼のダンスへの姿勢についても一言だけ述べたい。
本公演にて実施された出演者へのインタビューにおいて京極が「客観的にものを見る能力ばかりずっと鍛えてきちゃった気がしてて。」と自ら述べているように、私は京極の作品が構成・演出・振付全てにおいて理論的に組み立てられていることに感動した。上でも述べた前半と後半の意味役割と照明の使い方はその一例に過ぎない。しかし、この部分のみをみて、感性に対する知性の人というような単純な図式を当てはめるのはナンセンスである。自分の感性を信用できず知性に傾斜した場合、多くの表現者は決められたプロットを「しっかりやりきる」ことばかりに集中してしまう。その焦りが観客に伝わってしまったならば、「身体の自由」を鑑賞しに来たはずの人にとっては台無しである。しかし、本公演を観に来た人の中で、この作品に対してそのような印象を持った人はいるだろうか。むしろ、本作品を包んでいたのは、「緊張」と「余裕」の奇妙な結婚であったのではないだろうか。(昼夕両公演を観た人にしか分からないことだが)後半部分に加えられたいくつかの即興アレンジなんかは、その証左といえるはずである。

 強迫的に自由を求める行為は、不自由という反対物に転化してしまう。無理に「外部」に逃避しようとすると、迷いの森に絡み取られてしまう。こうした逆説を回避して、私たちはいかにして自由を名指すことができるのだろうか、「ダンスの自明性を問ふ」という疑問を私はこのように言い換えたい。そして、その問いを探るためには、安易な二項対立に自閉してはならない。山本が「死」を題材に「問う/問われる」の関係性に亀裂を加えたこと、高瀬が何らの静止と秩序も拒否して無人称的な諸器官に表現を託したこと、京極が肉と大地の境界を曖昧にしたことで「やわらかな強さ」を目指したこと、これらはその方途への鍵になるのではないだろうか。そこでは、身体は果たして自由なのかそれとも不自由なのか、という問いが宙吊りになり、自己言及の螺旋が停止する「無―自由」の領域が問題化されている。

山名諒

(神戸大学批評誌『夜航』)神戸大発の批評誌。半年ごとの雑誌刊行と、関西の人文学系のイベントへの参加を行なっている。

コンテンポラリーダンス イズ ソー ディフィカルト トゥ セイ

・はじめに
 まずこの批評文を書くにあたって私が直面した(ている)困難について、正直に打ち明けることから始めようと思う。3月31日に神戸アートヴィレッジセンターで行われた「ダンスの天地vol.00」では、13:30公演、17:00公演で計六組のダンサーのパフォーマンスが上演された。両公演合わせて1日4時間もの間、批評というプレッシャーを双肩に抱えてコンテンポラリーダンスを観た私は、すべてのパフォーマンスが終了したとき、その重みに潰されてしまいそうだった。「なんて困難な仕事を軽々しくも引き受けてしまったのか」と後悔を覚えたほどである。
私は神戸大学の学部生を中心に結成された批評サークル「夜航」の一員であるが、ダンスはもとよりコンテンポラリーダンスからは、かなり疎遠な関係を保ってこれまで生きてきたわけで、私にとってコンテンポラリーダンスは初対面の人間であった。いや、初対面の「外国人」として喩える方がより正確だろう。素性も知らなければ、私が親しんできた言語とはまったく異なる言語を話す他者。実際、彼/彼女の言語を理解するのは決して易しいことではなかったというのが正直な感想だ。明確な物語が提示されず、身体の運動の背後に意味を求めようとする試みはしばしば挫折し、理解しようとしても常に割り切れない余りが生じてしまう。
だが、それは私が抱いた第一印象の一面にすぎない。心を捉えて放さない魅力的な挨拶でコンテンポラリーダンスは私を迎えてくれた。言語交通の障害にもかかわらず、私は彼/彼女と話してみたいと素直に思った。これから私が書くことは、彼/彼女の挨拶への、私からの拙い返事である。

 今回のショーケースでは、ソロダンスが四作(京極朋彦の「DUAL」、山﨑モエの「水のキオク」、大熊聡美の「苺ミルクの妖精になりたい」、高瀬瑤子の「シンタイカする器官」)、複数人でのパフォーマンスが二作(SickeHouseの「亡命入門:夢の国」は三人、山本和馬出演・構成・出演の「Rehearsal of Heaven」は四人)が上演された。その中でも特に京極、山﨑、高瀬のダンスはソロダンスという形式のもとで、人間の身体を異化しようという同一のテーマを共有していたように思われる。はじめに三者のダンスについて見ていこう。

・ 京極朋彦 「Dual」 山﨑モエ 「水のキオク」 高瀬瑤子 「シンタイカする器官」

京極のダンスは20分という時間のなかで、様々な身体表現を見せてくれた。まず床に寝そべった状態で、ゆっくり身体が捩じられ、その反動でまた身体が異なる方向に捩じられるという捻転運動と手足の収縮・拡張の反復によって、まるで一つの植物のメタモルフォーゼのような身体表現が繰り広げられる。その後コントラバスの低音が軽快に響く音楽が鳴り始めると、四つん這いになり、猿もしくは肉食動物のように頭部、肩、腰の連動した四足歩行で舞台上を駆け巡る。それは人間的な身体の要素をまったく感じさせない動物的な動きである。動物的な動きの後は、落ち着いたジャズ風の音楽が流れるなか、両脚で立ちながら柔らかい肩の関節と長い腕(そう見えたのは京極が身に着けていた袖の長い服の効果かもしれない)を駆使し、緩急のついた四肢の運動が滑らかな線を空間に描く。まったく力みの感じられない京極の脱力した身体の動きは変則的で、次の動きが予測できないにもかかわらず、常に一つの流れのもとで切れ目ない運動が展開されていた。
京極のゆったりとした身体の動きは、見る者の視線を引き付ける引力があったし、実際観客の視線を意識した上でそれをコントロールするために設計されているような緻密さを感じた。動かなくなった(かのような)左腕を右手で支えながら、供物のようにそっと地面に置く最後の場面では、時間をかけた行為の遂行と、左腕を見つめる京極自身の視線によって観客の注意がそこに凝集される。
だが京極のダンスで私の注意を引いたのは、観客の視線をコントロールするように巧みに設計された運動だけではなかった。京極のダンスを語る上で、彼の表情、というより完璧な無表情を看過してはならないだろう。猫背で、顔を前方にやや突き出し、ゆっくりとした足取りで舞台に登場した京極の目は虚空を見つめていた。その無表情は、単に感情を表出しないだけでなく、感情がそもそも存在していないことを表しているようである。かといって内省的な面持ちでもない。むしろ内部に空洞を穿たれたような顔である。無表情を表現する能面とでも言うべきだろうか。京極の無表情は、感情や意志や思惟の不在、言い換えれば、人格の不在を表出していた。そしてこの空洞が、人間的身体の徹底的な異化に効果的に作用する。もはや京極の身体内部から流出してくるものは、感情でも意志でもなく、息(プシュケー)だけだ。四足歩行で舞台を駆け回り、何度も跳躍を繰り返す京極の身体から漏れ出る息は、魂というより、生命の充溢の純粋な現れである。
京極同様、人間的身体の異化という方向を向きながら、山﨑は「水のキオク」で、動物的身体というより、水中に浮遊する生物の動きを目指しているようであった。観客席では手元も見えないほどの暗闇の中、舞台上の山﨑の身体だけが陰翳を帯びながらスポットライトに照らされ、深海、もしくは羊水に満たされた子宮のような暗がりの空間が作り上げられていた。そこに観客は超絶技巧が織りなす、無秩序の身体運動を目撃する。 京極のダンスも山﨑のダンスも自らの身体の特徴(大きな背丈、頑丈な骨格と隆々とした筋肉、長い脚といった特権的身体とは対照的である)を活かしたパフォーマンスであり、さらに京極は袖の長い薄手の服、山﨑は身体に比して大きめのシャツを身に着けることで、効果的な身体表現を試みていた。だが京極と山﨑に対して背も高く、長い脚を持つ高瀬の身体は極めて人間的で、四足歩行の動物や水中生物の形態からは程遠い。一見不利に思われる身体の条件の中で、高瀬はむしろその長い脚を用いて非人間的身体を表現しようとした。高瀬は観客席の側に頭を向けて仰向けになり、膝を交点に両脚を交差させた姿勢をとる。そして、その両脚は無脊椎動物の二本の触覚のように、外界を探知しようと自由に動き回る。そもそも人間の脚は身体全体の重みをひき受け、移動の起点となる部位であり、太い骨と筋肉から構成されている。このような可動域が制限された脚を、無脊椎動物の柔軟に動き回る感覚器官として表現することは極めて高度な技術を要するはずだ。さらに脚を無脊椎動物の頭部や口から生える触手の表現に使用することは、頭部による全身の支配という人間的身体秩序の転倒をも意味している。この転倒の意味を理解するためには、外部対象を十全に知覚しようとするとき、それを脚で触れようとするかどうかを自問すれば十分だ。
高瀬のダンスのタイトル「シンタイカする器官」に含まれる「シンタイカ」には複数の意味が込められているだろう。「進化」「退化」そして「身体化」である。このように一つの語(「シンタイカ」)が複数の意味(進化、退化、身体化)を含んでいることは、一つの身体の内に複数の異なる諸器官が共棲していることとパラレルになっている(語の多義性と身体の多数性!)。高瀬のダンスは無脊椎動物から四足歩行の動物、そして直立二足歩行の人間的身体へと移行するのだが、興味深いことに、それぞれの段階をⅠ、Ⅱ、Ⅲとすれば、これらの段階は決して一方向ではなく、例えばⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅱ…のように遡行も含まれているのだ。   
これは進化論的な発生の図式ではない。進化とは退化でもあり、退化とは進化でもあるというメッセージを高瀬のダンスから受け取ることができるだろう。また段階論的に解釈することも許されない。高瀬が人間的身体を用いて、複数の身体の形態を表現すること自体に、一つの人間的身体の中に同時に潜在する、複数の身体の可能性が示されている。京極と山﨑のダンスを観た者ならこのことをより深く理解できるだろう。京極、山﨑、高瀬は一つの器官(京極、山﨑は腕、高瀬は脚)が自立化する場面を表現する。全体に組織化されることに抗う部分対象の自立化は、私たちの身体の内にある諸器官の潜勢力(ポテンツ)を現勢化する。「器官なき身体」 ならぬ「身体なき器官」、もしくは「身体化されない器官」。直立二足歩行でも四足歩行でもない中間状態で、前かがみの態勢を保って動き続けながら照明が消えていく「シンタイカする器官」の最終場面は、シンタイカ(身体化)の完成体は存在せず、私たちの身体はその内部で蠢く諸器官の潜勢力によって絶えず変化している/しうるのだということを示唆しているのではないだろうか。

 ・大熊聡美 「苺ミルクの妖精になりたい」

 大熊のダンスが今回のショーケースの六つの作品の中で特異な位置を占めていたことは確かだろう。確かにソロダンスという形式で京極、山﨑、高瀬と共通しているが、彼らと大熊のパフォーマンスの間を明確に区別するのは、大熊のダンスの持つ物語性でも、音楽や縫いぐるみなどの装置・道具でもなく、ある種の「過剰さ」である。過剰さが目立ったのは次のようなパフォーマンスである。長方形の小さな箱から取り出したグラスに牛乳を溢れるほど注ぎ入れ、両手をいっぱいにして絞った苺の果肉と果汁を牛乳の入ったグラスに滴らせる(苺ミルクを作る)。そして自らの眼球や内臓などをえぐり出すかのような仕草をし、それらを苺ミルクに浸す。続いて苺ミルクに指先を入れ、それを腕に塗り、舞台中央に置かれたウサギの人形に付着させる。そしてこの行為が繰り返される。
 十個くらいの苺を両手で絞り、苺の果肉と果汁が牛乳に滴り落ちる場面や、自身の身体を寸断するパフォーマンスには、「苺ミルクの妖精になりたい」という幻想的なタイトルとは裏腹に暴力性(攻撃性)が現れている。さらに、苺ミルクとウサギの人形の間を何度も行き来し、自らの血肉を捧げるかのような振る舞いは、自傷行為、反復、そして彼女の時折見せる恍惚の表情からも、宗教的儀式を思わせる。舞台には、プリミティブな宗教的儀式の構成要素である性と死の匂いが、苺の甘い匂いと溶けあい漂っていた。このパフォーマンスを単に理想(幻想)の存在になりたいというある少女の願望の表現として解釈し、暴力性や無意識の欲望といった契機を無視することは困難である。その暴力性(攻撃性)は、理想自我への欲望と、それへの同一化の失敗による自罰感情に苛まれる神経症的主体の症候だと解釈できるかもしれない。
 大熊のパフォーマンスの過剰さの一つは反復の過剰さにあるが、その反復される一回ごとの行為自体がそれに比べて過剰ではないということに非対称性がある。苺ミルクが入ったグラスが小さいためか、苺ミルクに指先を少しばかり浸す行為は他の暴力的な行為と比較すれば、あまりに小ぶりで、その分だけ抽象的になっている。過剰に反復される儀式的な行為の内容も同様に過剰にすることを彼女がなぜ避けた(躊躇した)のか。その理由はわからない。

・SickeHouse 「亡命入門:夢の国」

「亡命入門:夢の国」はダンサーと観客双方にメタ視点をとる批評的なパフォーマンスである。彼らのメタ・パフォーマンス(ダンス)という形式はショーケースのキャッチコピーである「ダンスの自明性を問ふ」を意識したものだろう。彼らはダンスの自明性自体を舞台上に可視化することによって、舞台空間上で完結する統一的なパフォーマンスの現前という理念を解体した。つまり舞台の内部と外部、パフォーマンスの内部と外部の間にそびえる見えない壁(いわゆる第四の壁)をアイロニカルな視線でもって壊そうとしたのである。そのメタ・パフォーマンスの全貌をここで論じることはできないので、印象的な場面をいくつか紹介しようと思う。
「亡命入門:夢の国」の開始は、唐突に訪れた。照明が舞台と観客席の両方を照らす中、舞台に立つ下村の「始めます」という声でダンスの開始が告げられたのだが、舞台の上ですでにストレッチをしていた下村がそのままこの合図を出したのだから、正確にはパフォーマンスの「開始」の合図ではなかった。開始の合図以前にパフォーマンスはすでに始まっていたのだ。通常(といっても今回のショーケースが唯一のサンプルなのだが)パフォーマンスの開始前は、観客席を照らす照明は落とされ、舞台上だけが照らされる。そして観客は静かにダンサーの登場を緊張しながら待つのだ。これによってパフォーマンスとパフォーマンスの間に明確な区切りが設けられる。したがって観客席を照らす照明も落とされず、それゆえ会場の静謐も待たないまま、準備のために舞台に登場した(かのような)下村が突然「始めます」と合図したことは、「亡命入門:夢の国」が一つのパフォーマンスとしての全体の輪郭を持たないということを意味する。「始めます」という合図は、まるでこれからリハーサルが始まるかのような印象すら与えたといっても大袈裟ではないだろう。そのような演出により、日常の時間とパフォーマンスという非日常の時間の間にあるはずの区別が消失し、パフォーマーと観客は共通の時空間を分有することになる。
パフォーマンスの開始を告げる合図は逆説的にもパフォーマンスの内部に組み込まれていた。いや、開始と終了によって輪郭を与えられているということがパフォーマンスの必要条件であるならば、「パフォーマンスは始まっていた」というよりむしろ「パフォーマンスはなかった」と言うべきであろう。しかし「パフォーマンスはなかった」というこの命題は、その後舞台上で展開される出来事(events)によって、文字通りの意味を獲得することになる。 例えばパフォーマンス後半に以下のような場面があった。英語でなされるプライベートな内容の質問に答えるという、面接のような設定の即興劇の中で、コンテンポラリーダンスを踊れと言われた下村が「watch me」と言い放ち、舞台前方でソロダンスを踊り始めると同時に、それまで舞台後方で寝そべっていた他の二人が舞台道具を片付けだし、まるでパフォーマンス終了後であるかのような会話(道具をどこに片付けるかについて、これからの予定についてなど)を始める。そして片付けのために一旦舞台袖に消えていった二人が再び舞台上に歩いて戻ってきて、ソロダンスを踊る下村にハグを求め、下村もそれに答える。即興劇の中でソロダンスを踊る下村と、舞台道具を片付けて日常の世界に戻ったような二人がハグをするとき、パフォーマンス内パフォーマンスと、パフォーマンスの外部が一つの舞台空間上で重なりあう。
「watch me」というセリフからも分かるように、ここで下村の踊るソロダンスはダンスの一形態ではなく、自分と自分の作品の関係の間に他者が介入するのを拒む(一般的なイメージとしての)アーティストの自己完結的な独りよがりの態度そのものを表現している。「watch me」という下村のセリフは、前半で演じられた、展覧会のような設定の即興劇で、客が自分の展示作品に触れようとするのを「Don't touch, please」と制止する出展者(芸術家?)の態度とも重なる。その展示作品は、パフォーマーの三人がバケツリレー方式で十個くらいの大小異なる木箱を積み上げて素早く作り上げたものにすぎない(その過程を観客は露骨に見せられる)。にもかかわらず、即興劇が始まるや否や、出展者を演じる人物が、客を演じる他の二人が作品に触れようとすることを頑なに拒否し、強いアイデンティティを作品に感じているのだ。この出展者のように「touch」を拒むはずのソロダンスを踊る下村が、パフォーマンスの外部にいる二人のハグを受け入れたことは、パフォーマーが自分の作品との閉鎖的な自己関係から他者に向かって開かれたことを意味するだろう。 「亡命入門:夢の国」では、舞台上に複数の異なる時間・空間・物語・言語・人種が登場し、そのどれもが舞台空間の現前を専有することなく、互いにズレながらもシンクロする。それゆえ観客の眼差しは舞台空間を自由に徘徊し、あらゆるパフォーマンスの背後で響く「watch me」という、常に隠されている/なければならない命令・了解から解放される(夢から醒める)。夢の国から亡命するのはダンサーだけではなく、観客もまたその亡命者の一員なのである。

*山本和馬作品「Rehearsal of Heaven」については夜航のもう1人のメンバーである中村氏が彼の批評文の中で中心に論じているのでここでは触れなかった。

・おわりに
「コンテンポラリーダンス イズ ソー ディフィカルト トゥ セイ」。これは、SickeHouseの「亡命入門:夢の国」で下村が「what is contemporary dance?」という質問に対し口にしたセリフである。確かに、コンテンポラリーダンスが何であるかを説明することは容易ではない。私のように「ダンスの天地」で初めてコンテンポラリーダンスを実際に観た観客でも、またダンサーや振付家を含めたコンテンポラリーダンスに携わる人でも(その場合にはなおさら)この下村の片言の英語のセリフに共感を覚えるに違いない。むしろ説明することの困難が、コンテンポラリーダンスについての単なるイメージを超えて、その定義の一部でもあると言えるとすれば?
 いや、定義することだけに困難(ディフィカルティ)があるのではない。個々のコンテンポラリーダンスの作品の内容について語ることにも困難があり、その困難は観客に対して容赦も否応もなしに突きつけられる。たとえ、ため息をつかせるほど圧倒するような超絶技巧の身体表現が繰り広げられていようとも。定義すること、そして個々の作品の内容について語ること(セイ)につきまとう二重の困難を下村のセリフに聞き取ることができる。コンテンポラリーダンスの作品について何か述べるときに観客が持ちうる語彙体系(ボキャブラリー)には、(「亡命入門:夢の国」でしばしば観客が耳にした)「good」、「not so good」、「I don't know」という、振付語彙(ボキャブラリー)の過剰に比して貧弱な、しかし同時に非常に的を射ていると思われる数語しか含まれていないのかもしれない。もしこのような、経験にも知見にも裏打ちされてもいない私の臆見がコンテンポラリーダンス業界の現状を説明する一つの仮説としてみなしうるのならば、その検証とともに、この現状から脱出(亡命)する方法が探し求められなければならないだろう。この「困難」な課題に対する解答に導くヒントのようなものをSickeHouseは提示しようとしているように見えた。先に述べたように、「亡命入門:夢の国」はダンサーと観客双方にメタ視点をとる批評的なパフォーマンスである。彼らはダンサーと観客双方のもつ「ダンスの自明性」という欺瞞にアイロニカルな視線を投げかけていた。パフォーマンスに見る者の眼差しが回収されてしまう循環からの脱出という彼らが示した方向には、批評という営為を見出すことができるだろう。振付語彙の過剰から逃れること、ダンサー/ダンス間の閉鎖的な循環に楔を打ち込むためには、コンテンポラリーダンスを批評すること、言語化(言説化)することが一つの方法となりうる。なぜなら、批評とは「Don't touch, please」、「watch me」という命令・了解に違反し、振付語彙と異なる語彙体系をもって、ダンサー/ダンス間の閉鎖的で自己完結的な関係に外部者として介入することだからである。しかし、それは語ることの困難に対峙する義務を放棄することではなく、その困難を受け止めたうえで語ることだ。私のこの「批評文」がそのような要求に応えることができたかはわからない。だが、それが私の内部で決定されないことだけは確かである。

竹田真理

90年代後半に活動を開始し、2000年より関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等を執筆。ダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。

創造性の発露と自由な試行 ―ショーケース公演の可能性

関西発のダンス・ショーケース公演「ダンスの天地」がvol.01として本格的に始動した。プログラムには今日のコンテンポラリーダンスがもつ表現の幅を示すような多様な5作品が揃った。作品の方向性を考えるにあたって、意味内容を表現するものと、言語自体を問うものの二つの指標をひとまず置いてみる。前者の代表的な振付家はタンツテアターを標榜したピナ・バウシュ、後者はバレエの技術を極限まで推し進めたウィリアム・フォーサイスだろう。この指標に沿って今回の5作を見れば、前者の先鋒が原和代、後者は...1[アマリイチ]と理解することも可能だ。だがさらにそこから外れ、それぞれの距離と方向性をもって自身の思考を深めている5作品であったことは興味深い。様々な舞踊言語の参照、外部の表現や思想との接続などが個々の問題意識や美学のもとに追求されており、その背後には膨大なダンス史の蓄積があり、作品はその流れの中での様々な参照の結節点の一瞬の現れであり、動き続ける思考の結晶なのだ。アジア各国から押し寄せる多様なダンスの波や、震災後に高まりを見せる日本の伝統芸能への関心は、ダンスを人間の生活文化に根差した営みと捉える視点をもたらしている。他方、集団性やノリに依存し、身体を巡る繊細な思考が後景に押しやられつつある傾向も一部に見られる。そうした状況で前回および今回の「ダンスの天地」が示したものは、舞台芸術としてのダンスであればこその創造性の発露と、小規模なショーケースならではの自由な試行ではなかったろうか。そして何より様々な地域で個別に活動するダンサー・振付家との出会いがあること。そのような場として「ダンスの天地」は機能し始めている。

...1[アマリイチ] 『うちそと』

ベートーベンのピアノソナタ13番を全曲使用し、音楽の形式を借りて振付を行った作品だ。左右に並んだ二つのスポットライトのそれぞれにダンサーが立ち、ほぼ全編、移動することなくその場で踊り続ける。
本作に先立って5月に発表された『punk・tuate パンクチュエイト』では、物事を「区切る=punctuate」をコンセプトに、空間にピンクの紐を張り巡らせるなどの行為性を含んだパフォーマンスを展開した。劇場ではないイレギュラーな空間に思いつく限りの振付や行為、動作を投入し、何でもありの散らかしぶりの中で、何が空間を限定し定義をもたらすのかを見極めようとしたのである。これに対し今回の『うちそと』では、境界を巡ってのコンセプトを引き継ぎつつも、要素を削ぎ落とし、形式を課すことでダンスの本質に近づこうとする。
アンダンテの明るい曲調が始まると、スポットライトのそれぞれに二人が立っている。益田さちは上体をゆっくりと回したり背面へ仰け反ったりしながら姿勢を不定形に変化させており、斉藤綾子はうつむいたまま、下ろした右手の先をしきりに動かしている。ベートーベンのピアノソナタ13番は、「月光」「悲愴」といったタイトルを持つ他のソナタに比べると、理性的な音の運びを特徴としており、疑いのない形式性が前面に出る。特に第一楽章は清潔なエチュードのような曲想だ。ところがダンスはこの音に対し、リズムやカウントやステップではなく、動作の中間を切り取ったような姿態や、微細なさざめきのような細部の動きで応じている。ダンス以前、あるいはダンス未満というべき不定形の身体、音楽の形式性を裏切る身体の歪なあり方をもって、期待されるオーソドックスな振付の外に立つことを試みているのだ。ユニット名の「...1[アマリイチ ]」には「割り切れない数」の意味がある。形式からはみ出るもの、剰余へのこだわりは、二人にとってユニット結成時からの一貫したテーマであるようだ。
曲想とのずれを含みながら始まった音楽とダンスの関係は、こののち徐々に呼応しはじめ、音楽そのものの発露と化し、やがて音楽を追い越していく。二楽章・アレグロ短調での激しく劇的な動きや、快活なリズムによるユニゾン。三楽章・アダージョでは輪にした両腕と上体のおおらかなうねりが音楽とともに空間を舞う。
踊る位置を固定することはステップを踏まないことを意味し、ダンスという表現形式における最大の制約を意味する。その制約のもとで二人は音を細かく拾い、曲想の煽りを受け止め、音楽に宿る本質を引き出そうとする。それはまた本質を踊り手自身の身体性と深く結びつける作業であり、振付の意図したもののさらに先へと踊りを連れ出すための自由を獲得することでもある。特に印象深いのは体軸から水平に差し出される腕。周囲の空気を切り裂くように鋭く旋回する腕は、しなやかでありながら、ギュンと音を立てそうな獰猛さを備え、身体的な均衡の破れの限界へ迫るかの勢いでドライブする。この腕の動きは斉藤綾子が他の作品でも見せた特徴的なもので、斉藤の中に内在した身体言語をユニットで共有したものだろう。明らかなように、ここでは身体は、形式から外れるのではなく、形式の外から中心へ向かって運動性を増している。加速する身体は振付を追い越し、時間の微分を繰り返しながら、形式と言語の始原の瞬間へと向かうのである。そこに待っているものがダンスの真髄であるのかは誰も見たことがない。もはやダンスと呼ぶ必要のないものかもしれない。
終盤、すべての振付を放棄したような一瞬の空白があり、そこからコーダに向け、初めて定位置から抜け出した二人は、客席手前まで弾けるように踊りながら走ってくる。そしてそのまま左右に分かれてアクティングエリアを走り去り、視界から消える。「境界」の外へと文字通り出ていく、解放された、胸のすくような幕切れだった。

原和代 『呼び合う声、朝と夜』

シアトリカルな構造をもった異色の作品だ。台詞があるわけではないが、暗転のたびにシーンが転換し、タイムラインは攪乱されている。一つのシーンは非常にスタティックで、ムーブメントによる時間的な展開はない。場面の切り替えによって、切り取られた時間軸が継ぎ合わされるが、一場一場は完結した光景であり、ショットの構成で成り立っているという意味では映画的ともいえる。
ドヴォルザークの交響曲『新世界』の勇ましい響きから始まる。音楽に遅れて照明が入ると、舞台の両端に男女が立っている。二人はすぐに中央に歩み寄り、肩越しに「はす向かい」に立つと、同じ動作を、鏡ではなく点対称になるように行う。腕を直線的に使った儀式のような動作。ドヴォルザークの音楽の劇的な響きに、内的な動機をもたない簡素な動きが対置される。これをどのように見ればよいのか、観客は文脈を作ることができずにいる。二人の衣装も奇妙だ。男は赤の、女は青色のウィンドブレーカーのような上下を着ていて、何をする人なのか、どんな関係にあるのか、この場がどのような状況にあるのか見当がつかない。二人は互いに手を取ることも、向き合うこともないが、図形的な対称性を保ち、フィックスした振付を動く。躍動せず、情動に突き動かされることのない冷えた身振りは、時間の喪失を暗示するかにも見える。
女が去り、音が止むと、小さな車輪をつけた"すのこ"状のカートの上に、男(竹ち代毬也)が腹這いになり、スイーッと滑る。「ハ、ハ、ハ、ハー」という男の笑い声のエコーが入り、ギャグとも不条理ともつかない感覚が広がる。エコーの後に一瞬の暗転があり、再び照明が入ると、去ったはずの女(高瀬瑤子)がいて、カートに跨り、足を使ってゆっくりと舞台を一周する。次に男が女の乗ったカートをロープで引き、やはり舞台を一周する。橇を引くようにゆっくり進む男と、引かれていく女。振付家は敢えて虚ろな行為やナンセンスな光景を作り出そうとしているのか。要素は混在しつつ脈絡を欠き、意味や情景、情緒への回収を拒んでいる。だが一方で、カートの二人はあてどのない旅の途上にいるようにも見える。聞こえてくる雨の音が、微かな記憶を呼び覚ます。むしろ、すべての事柄が意味の兆しであるように思えてくる。男は下手前に来ると前屈みの動きで何事かをモノローグし、女は対角線の端から男の背中に向けて、身体を大きく使った身振りを繰り返す。
一貫して、情動を欠いた淡々としたトーンで舞台が運ばれ、何か大きな出来事が世界を終わらせてしまった後の寂寞とした光景が描かれる。衝動、リズム、速度を欠いたダンスは歴史の喪失を意味している。しかしヴィジョンはどこか神話的であり、記憶の欠片や記号に満ちている。単体としての身体と、補完しあう二つの身体の景。二人は人称のない、人類最後の男と女だろうか。世界を構成する二つの要素としての、赤い服と青い服、男と女、朝と夜が、歴史「以後」の世界でなお、呼応し合う。広島、長崎、東北、福島、いくつもの「以後」を生きる私たちの現在を、遠く照らしている。
後半、二人はウィンドブレーカーを揃って脱ぎ白い服に変わると、それまでとは対照的にシルエットを親密に重ねながら、手足を大きく動かして踊った。最後に男が女の手を取り、二人で走り出そうとする瞬間に幕となる。「はじまり」を一瞬仄めかした演出は、原和代から観客への贈り物だろう。竹ち代毬也、高瀬瑤子の経験を積んだ身体が言語化されない現代の神話の語りに貢献したことは疑いがない。力のあるダンサーを起用しながら、そのダンス・スキルに依存せず、別の方向の創造性へと開いた演出の力にも言及しておきたい。

木村愛子『人はどこまで進化を望むのか?』

ダンスの審美的な側面と、意味内容をもった作品性の双方を追求した作品だ。ポストモダンダンスが物語を排除して以降、ダンスは動きそのものの自律と身体の現前をもって自らの表現形式を追求した。その後登場したコンテンポラリーダンスは、非常に大雑把に述べれば、ダンスに再び物語性/歴史性を回復していく過程と見ることができる。ただしそこで語られる物語とは起承転結をもったストーリーではなく、直観によって配置される記憶や神話、イメージやテキストの断片的な構造だ。しばしば言われる若手がフルレングスの作品を創作することのハードルの高さは、このようなナラティブを構築する力に関わっているように思われる。本作はダンスとナラティブの両立の試みであり、今日のダンスの作り方の一つの典型を示している。
上体を折り、手足を床について四つ足で現れるダンサーは、訓練された硬質な身体で人間以外の生き物の動きを見せる。カエルかトカゲ、おそらく両生類か爬虫類。その背後には多数の乳白色の風船が引きずられて出てくる。風船はすべて一本の糸に連なっており、直接的には「カエルの卵」といった印象だ。あるいは「細胞」「子ども」「分身」などを連想した人もいるだろう。いずれにせよ何か生体に関わるものが想像され、それ故に次の瞬間、風船を次々と割っていく行為の暴力性、自虐性には胸を突かれる。床に散らばったゴムの破片を、ダンサーは一片ずつ拾い上げ、一箇所に寄せ集める。残骸を葬る行為であり、手のひらから花びらを散らす弔いの所作にも見える。生命の破壊・抹消と、失われたそれへの哀れみと、相対する局面に引き裂かれて、ダンサーは身をこわばらせる。
タイトルからも分かるように、本作で木村愛子は、とどまることを知らない文明の進展が人類や生物の身体にもたらす変容や、予測不能で得体の知れない未来への危機感を描いている。人類、生物、進化、環境、人工知能などを扱うサイエンス、あるいは産業、戦争、資本主義を巡る政治や社会的な問題など、振付家の批判意識は人類史的、地質学的な時間から現在のアクチュアルな問題までを射程に入れている。ポストヒューマンなど思想の動向も参照可能な主題だろう。壮大なスケールをもった時間の流れを想定するのか、木村はたびたび上体を大きく反らし、遥かなものを仰ぎ見るような動作をとるのが印象的だ。身体のラインを生かしたフォルムが美しい。
事象を異なる角度から描くために木村がとった方法は、暗転を多用し、シーンを細かく切り繋ぐことである。この方法は語り口にテンポを生み、シリアスなテーマを過度に内的になることなく外へ向けて描き出すことにつながっている。風船には軽やかでポップな質感があり、ロックミュージックの曲調が喜劇の開始を告げる。何かを探し、さまよい、行き止まり、押し戻されるマイム、風船の残骸が残る糸を不思議そうに眺めては自らに巻き付ける、といった主題に関わるシーンと、ストロボの明滅に晒される身体、硬直と弛緩を繰り返す身体、床の上で引き攣る身体といった身体の質感や現前に関わるシーンとが、暗転のたびに入れ替わり現れる。この方法には功罪があり、時間の持続の中で身体が強度を得て訴求する力を削いでしまう面がある。それでも全体からは、あるクライシスの感覚が確かに伝わってくる。後半には冒頭の風船の破裂音が音響として再現されるが、音は銃弾を連想させ、ダンサーは弾けるように痙攣する。ここまでの基調が軽快であっただけに、このシーンの悲劇性は胸に迫る。痙攣から徐々に前後に身を翻し、やがて両手を水平に広げての回転へと誘導されるシークエンスは内的な高まりを発露させたひとつのクライマックスだった。再びの暗転で素に戻った身体は自身の変容に気付く。もはや自らの意思を超えて進化してゆく身体。我が手を見、遠くを仰ぎ見、身をよじりながら痙攣していくラストシーンまで、主題を描き切った。

野口友紀『individual』

シアトリカルな作品、テーマを追った作品とプログラムが続いた後の、ダンスそれ自体の展開を見せた作品だ。語る内容を持たないという意味では...1[アマリイチ]に並ぶが、...1[アマリイチ]がダンス・クラシックとモダン・ダンスを基盤とするのに対し、野口友紀は西洋由来とは異なる身体を備えていて、こちらも好対照である。これまでストリートダンスを踊ってきた野口だが、今作の振付にストリートの語彙の直接の引用はない。むしろ独自の身体言語を獲得していて、そのリアリティある踊りに目を見張らされる。端々にブレイキンやロックダンスの要素が垣間見えはするものの、それらは分節されて野口の文法に組み入れられ、振付を構成する最小の要素にまで還元されている。それでも確かに感じられたのは、生き抜く術としてのストリートダンスの精神といえばいいだろうか。地面を捉える素足、重心を低めに構える姿勢は、西洋中心の舞踊史に対するもう一つのダンス史の存在を示すものだろう。
踊り以外の要素はごくシンプルで、衣装は膝上丈のアースカラーのさっくりとしたワンピース。そして何より心憎いのは選曲。ヴォーカルの入った少し憂いのあるダンスミュージック。どこか諦念を含んだミドル・テンポの曲に付かず離れず併存しながら、野口は素足で床を捉え、身体をやわらかく捻り、動きの経路を探っていく。肩をずらし、胸を反らし、腕を差し出し、肘先を脱力し、くるりと一回転し、ストンと床にしゃがみ、といった日常的な可動域の範囲で構成された動きは、そのつど偶然に選択されているようでもあり、一つの動きの必然に従って次の動きが選択されるようでもある。一つ一つ独立したクリアな動作はフレーズを作らず、明瞭なアーティキュレーションによって連続してゆく。そうした技術から生まれる踊りは、自身の身体に密着した語彙ならではの説得力を持つと同時に、泰然として粘り強い質感をもち、ある種の不遜さ、ふてぶてしさの表象となっている。
中間部の暗転が長く続く箇所には不思議な演出が施されている。暗闇の舞台から物音がしていて、どうやらダンサーが踊り続けているらしいのだ。床を打つ音、擦る音の気配から、観客は見えないダンスを想像する。音が露わにするのは踊る身体に備わる意外なほどの物質感だ。舞台上のイリュージョンを掻き消し、ダンスという現象を物質化してしまう。これは動く身体のもう一つの現実だ。ダンスとは動く身体と重力と摩擦の関係に他ならない。この事実は踊り手の存在の根源に降りていく感覚に通じている。闇の中で、一人踊り続けるダンサーのそれ以上分割不可能な個=individualが、自らの踊る理由を探し求めている。暗転の合間に薄っすらと灯りが射すと、月光の下を歩くダンサーの姿が一瞬現れる。夜の底を一人歩く個=individualの存在と、動きと身体の物質性が、ダンスという表層の奥にあるものを照らし出す。
再び入った照明のもとにあらためて見る踊りは、横跳びから床への崩れに身を投じるなど、動きの一つ一つが質量をもち、挑発する力に満ちている。身体を動かす喜びを謳歌しながらも、優美さや従順さではなく、私はあなたの思い通りにはならないという不遜さをまとったアンファン・テリブルの身振りである。野口の踊りの説得力はここにはない理想を追うのではなく、今ある現実を踊ることにあり、諦念と表裏にある抵抗の精神を備えた路上のダンスに通じている。身体を屈めながらの低速・不定形の動きや、身体の部位との内的な対話など、舞踏の影響かと思われる箇所も散見された。岡山で三浦宏之の薫陶を受けている野口であれば、その可能性は十分にあるだろう。ストリートダンスと舞踏の交配が新しい世代の踊りを生み出しているのだとしたら、私たちは刷新された舞踊史の現在を見ていることになる。

遠藤僚之介『pure(  )』

映像と照明が大きな比重を占めた、マルチメディア・パフォーマンスの系譜に位置づけられる作品である。映像、照明、舞台空間、身体、音楽、ダンスの諸要素が舞台に一つの環境を作り出し、その中心に作者自身の身体が置かれている。
3人のダンサーのうち二人(いはらみく、山本和馬)は全身に黒い衣装をまとい、顔面もドーランで真っ黒に塗っている。ダンスミュージックとともに踊るのはこの二人のみで、演出・振付の遠藤僚之介は舞台中央に客席に背を向けて立っている。アップテンポの曲調に合わせて、黒塗りの二人がナイトクラブのダンスのように少し頽廃的な雰囲気を交え、遠藤の周囲を回りながら踊る。客席の背後から舞台奥のホリゾント幕に向けてライトが照射されており、ダンサーたちのシルエットを映し出す。遠藤は背中にこのライトを受けながら立ちつくす。おそらく遠藤と黒い二人は異なる空間に属した存在である。舞台に現れる光景はすべて遠藤の視点が捉える世界のイメージであり、踊る二人は世界の中の名もなき群衆、他者、影、あるいは死者たちだろうか。
ホリゾントには時折、小さな矩形の画面が現れ、海の映像が投影される。深々とした海の画像は世界の根源や混沌を暗示し、情報化と資本主義の窮まった現代と対極をなす。これも遠藤の意識の中にある世界のイメージの投影だろう。黒い影、照明の明暗、モノクロの映像で展開してきた作品に初めて色が現れるのは、青、緑、赤の光がホリゾント全面を照らす時だ。色彩の三原色は世界の構成原理を示唆するのだろう。この場面を境に何かが臨界を迎えたように、遠藤自身の身体パフォーマンスが開始する。背後のホリゾントには世界の都市を捉えた高速の映像が投射される。巨大な情報量と資本主義の野蛮に翻弄されるかのように、遠藤は舞台を動き回る。ランダムな動きに見えるが、ステップによる細かい移動と頻繁な向きの転換があり、上体の捩じれや腕の遠心力を用いたアメーバ状の伸縮を速度の中で操作する。ようやく訪れた遠藤のダンスのシーンは上演時間をわずか5分残した時点から始まった。もう少し見ていたかったが、コンセプトを設計どおり描き出すための構成というわけだろう。大きな構造と巨大なエネルギー、時間の流れ、その中に晒され佇む身体の対比の構図である。
一点疑問を述べれば、顔面の黒塗りは意図した以上に過激な意味をもってしまってはいないか。マルセロ・エヴェリンが戦争やテロリズムなど現代の社会が生む犠牲者の表象を裸体の黒塗りに込めたことを想起するが、それだけ強い表現をもつこの方法に、遠藤が込めた真意は何だったのだろう。

岡元ひかる

 作品に個別な内容を綴るに先立って、筆者が本レビューを執筆する際に心がけた点を述べたい。
一つ目は、記録映像では確認できない、場の状況を言葉で記録することである。舞台上で行われた物事のみならず、劇場空間の中で起こった状況、さらにその状況が与える観客の経験を含めて一つのダンス作品であると考えている。二つ目が、ダンサーの身体性になるべく具体的な言葉を充てることだ。ダンサーの身体を目前にしてしか見えてこない踊りの特質がある。そして三つ目が、筆者の知見と解釈によって能う範囲においてではあるが、現在のコンテンポラリーダンスシーンにおける各作家や作品の位置づけを行うことである。

  ①「うちそと」
 「…1[アマリイチ]」を結成した斉藤綾子と益田さちには、世代、性別、細身の身体、そしてこれまでずっと関西を活動の拠点としてきた背景に至るまで、多くの共通点がある。さらに二人は、関西を代表する振付家・きたまりの『悲劇的』の共演者でもあり、ダンサーとしての経験にも重なる部分がある。この、あらゆる意味で似通う点をもつ二人が構成するというユニットの特色に着目すれば、彼女たちが境界という概念に関心を寄せることにも必然性が感じられよう。周知のとおり、コンテンポラリーダンスシーンではあらゆる意味において異種の出会いが生み出されてきた。対して、「…1[アマリイチ]」による活動の眼目は「ひとつ」の何かを腑分けすることである。彼女たちは領域や素材、地域などに関するダイナミックな越境がダンスに新味性を与える例をいくつも知っているに違いないが、その上であえて「同質」を出発点とした創作に取り組んでいる。それは、よりミクロなレベルを前提に置いたダンスの境界を探る、身体的なリサーチとも言えよう。本作『うちそと』では、そのリサーチ過程の一端を見ることができた。
 冒頭、目を閉じた二人は、手や顎だけで極めて微細な動きを見せた。関節・腱・筋肉など、身体内部の感覚に集中しているか、はたまた身体の外部空間に架空の状況を想像しながら動いているようでもある。そしてその先、踊りながら彼女たちが意識を向けるのは、身体の内側に近い対象から、より外側のそれへと移行した。暗闇に浮かぶ二つのスポットライトの中に立つ斉藤と益田は、ラストまでその外に出ない。そのため、殆ど上体に限定された動きが続いたにも関わらず、動きのダイナミクスが増大するプロセスが、豊かな振付ボキャブラリーによって細やかに進められてゆく。ラストシーンの段階になると、彼女たちの意識は客席にまで届き、踊りが支配する空間が会場全体へと拡張されていた。そこから一旦、助走のように二人は動きのボリュームを下げ、ついに漸くスポットライトから脱出する。ポジティブかつハチャメチャに踊って最後、舞台にぽつんと残った「ひとつ」のスポットライトが彼女たちのテーマを象徴した。ダンスの空間が拡がってゆく段階が、作品を構成していた。
 ところで本作で用いられた音楽は、ベートーヴェンのピアノソナタ第13番である。序盤においては個々別々の振付を踊った二人は、フレーズの切れ目で時々ストップモーションを挿入した。流れるように続く踊りに対して、このような瞬間にはダラダラした印象を防ぐ引き締めの効果があっただろう。
 時間が経てば経つほど二人の熱量は加速度的に高まり、後半からは駆け抜けるようなユニゾンに突入した。ユニゾンとは、同じ振付を複数人が一緒に踊ることを指すが、ここでは身体的素地も似通った二人の動きに、きわめて微妙な質の違いが見えてくる。父・サイトウマコトのメソッドをマスターする斉藤は、いつも淀み無くまろやかに空を切る腕が印象的だ。益田からは、それよりも少しキレのある動きの印象を受ける。同じ「ひとつ」の振付であるかないか、その違いを隔てる境界はどこにあるのだろう。上演では、同じ振付の内と外を隔てる境界が、見え隠れした。
 ロングヘアの斉藤とベリーショートの益田。白い衣装には、スカート丈の長さを変えるなどの工夫でデザインの差がつけてある。清潔感のある現代の若い女性という日常的なイメージから、非日常に少し逸れた雰囲気を醸すビジュアルであると言える。無難といえば無難、しかし裏を返せば、幅広い種類の鑑賞者を想定できる二人組と言えるだろう。コンテンポラリーダンスという括りや小劇場にこだわらず、様々なシーンを活動の場として選べる可能性をもったユニットである。

  ②「呼び合う声、朝と夜。」
 プログラムに記された演出ノートによれば、『呼び合う声、朝と夜。』には、振付家・原和代の恋愛観が影響したそうだ。男女のデュオが展開される本作は、半ば演劇的でもある。ただし原の中で構築された物語を観客が予め知るわけではなく、またタンツテアターなどとも作風が異なる。言うなれば、それは原が考案した独自の男女関係や物語設定を、ひとつひとつのシーンに象徴させたような作品だ。
 冒頭で用いられたドヴォルザークの『新世界より』第4楽章は、それだけで既にドラマティックな世界観を立ち上げることができる。そんな効果に拮抗する身体の強度、あるいはその効果を逆手に取る戦略などがなければ、音楽と身体の共存が成立しにくい。こうした難しさを一方では感じさせつつも、他方では、あの有名なメロディーが「新世界」という言葉を記号的に思い起こさせる側面は、原の壮大な世界観(「朝、男がおーいと叫ぶと、夜、地球の裏側で女がおーいと受け取る」(プログラムノートより)など)を共有するのに効果的であったように思う。
 本作では作家の頭の中にしかないプロットを、そのまま伝えることは意図されていなかっただろう。むしろそれを抽象化しておくことで、観客が想像力を使って設定の詳細を補うことが想定されていたように感じた。ただその試みもまた、ダンサーの身体から何らかの意味を読み取る観客の姿勢を要請するという点では、前者とほぼ同じ次元にある。中盤のシーンでは、高瀬が台車の上に座り、それを三輪車のように操縦した。そして舞台上に何周も円を描きながら移動するという抽象的描写が、しばらくゆっくりと続く。のどかな田園地帯で聞こえてきそうな自然の効果音などが何らかの想像を促すトリガーになるが、そうした想像にもこちらの努力が必要になってくる。実はこのシーンで最も印象深かったのは、もっと瑣末な要素だ。台車からはみ出し、チョコチョコ床を蹴る高瀬の足が、床に吸い付き、高い甲がニョキッと出て、また床に吸い付く。舞台で行われることを解釈することよりもむしろ、代わりにこうした身体の面白さに関心を奪われた。
 ダンサーの高瀬瑤子と竹ち代毬也を組み合わせたキャスティングは、男女の関係性についての多様な解釈を促した。まず二人には、身体的素地に大きな違いがある。長い肢体と関節の広い可動域を生かし、ひとつひとつの振付をのびやかに踊る高瀬と比べて、竹ち代のそれはかなり制限されている。作中に登場した振付は、どちらかといえば西洋的身体を持つ高瀬にとって踊りやすいものだろう。そのため二人が同じ振付を踊るシーンが多かった本作では、否応なく女性である高瀬が男の竹ち代よりも「できる」という構図が出来上がった。
 また、年齢の隔たりが特長的だと感じたのは、筆者だけだっただろうか。スマートな線を描く振付が多いせいか、二人の関係性は叙情的ではなく、むしろドライに見える。それだけに、年上の竹ち代と若い高瀬に想像される関係性は、恋愛に限定されずに開かれた解釈を許した。

③「人はどこまで進化を望むのか?」
 例えばワンフレーズの振付を踊るだけで憑依の相貌を呈するダンサーに、たまに出会うことがある。それが本人の随意によるものか否かについては一概に語れないが、木村愛子は少なくとも、自分の状態を通常から何かに憑かれたような状態へ変容させることができる、振付家/ダンサーであると言えよう。
 冒頭、カエルの卵のように連なる白い風船をいくつも引きずり、四つん這いで登場した木村は、どこか気味の悪い生物だ。ところが次に二足歩行で正面へ歩を進めるうちに、巫女のような少女に変わってゆく。そしてその神聖な姿にこちらが慣れ始めた頃、観客の不意を突き、狂ったように風船に次々と針を刺してゆく。バンバンと鳴り響いた破裂音にまだドキドキさせられつつ、木村の目から正気の色が消え、少女からヤバい女のモードに切り変わった様子を認めると、まるで予告無しに秘密を暴露されたような気分に包まれた。
 その後、作中に暗転がこまめに挿入されることで断片的なシーンが順に現れていく。その間も木村の危なっかしいモードは続いた。例えば定点で上体の動きを繰り返す時も、目使いがどこか不穏な存在感をキープする。また別のシーンでは、おちょこを持つかのような手を観客に差し向け、危なっかしくもつれた足取りで歩く。そしてついに架空の容器の中身を木村自ら飲み干してしまうと、途端に退廃的なムードが一気に高まった。
 踊りの中には、そんな狂気と退廃の佇まいをベースとしながら、観客を反射的な感覚に誘う動きが目立つ。例えば複数のシーンに用いられたのは、手の甲が発作的に額へ引きつけられるような動きである。また別のシーンでは、舞台に上手から光を射す照明器具に近づき、その度に突如として頭が光に弾かれるようにのけ反る。そして終盤の踊りでは、頼りなく空をさまよう腕が、これもまた急に、痙攣のごとく方向を変える。感情移入ではないが、こうした瞬間を目にして、針で身体の局所を突かれた時にビクッとしてしまう、そんな反射的な身体感覚への移入が起きるのである。
 自分の動きが「コントロールの枠を超え出る」ようにコントロールすることは、きわめて難しい。本作では、生命科学技術の発展に伴う、身体のあり方・身体に対する考え方の変化が扱われているが、木村はその難しさをクリアすることで、このテーマを身体的レベルに落とし込んだように思われる。
 終盤の踊りも特筆したい。はじめは片足を上げたアンバランスな態勢で微動だにしない木村の身体フォルムが、こちらの脳裏に焼きついた。この彫像のような数秒間があった後、空中の脚だけがゆっくりと動くと、その脚だけに視線が吸い込まれる。そしてついに床に接触する瞬間には、観客の注意が木村のつま先一点に奪われるのを感じた。観客がダンサーの身体のどこに注目するか、という点までもが計画されたようなシーンだ。さらに振付は続く。彼女が肘を曲げて上方に伸ばすと、筆者と同様、他の観客の視線もまたその肘に引きつけられたことが、肌身で感じられた。
 今回の公演の中で、本作は最も印象深かった。ダンサーが自分の身体を用いて確信犯的に行う踊りの工夫は、何でもある種の「テクニック」に発展する可能性があるのではないか。そう感じさせた作品だ。

④「indivisual」
 純粋な踊りで20分間を勝負した、という印象を与えた作品である。静かにゆっくりと歩むシーン、そして暗転の中で野口が動いている音だけが会場内に響く時間などがあったが、残りの要素はいわゆる王道の踊りで構成された。
 さて、彼女の振付ボキャブラリーを最も支えていたのは、腕の動きであっただろう。神経が遮断されたようにダランとした手はいつも無表情であるのに、肩から手首にかけての表情はかなり多彩に変化する。例えば、ストリートダンス由来すると思われる筋肉の弾き、弛緩、関節を操って生み出されるウェーブなど、見ていて飽きない。その反面、四肢以外の身体部位がブロックのような塊状態であるために、常に小さくまとまった動きばかりが展開されたという印象もある。コンテンポラリーダンスを観ている時は、作品構成にも演出にも振付にも、観客の期待を良い意味で裏切るような意外性を期待したくなる。そのため、もし手足の先端や胴などの開拓がさらに行われるならば、さらに空間的な伸縮性に富んだ身体、そしてさらに意外性のある動きが可能になるのではないかと感じさせた。
 ところで野口のダンスでは、動きのスピード感や、動きのタメや止めによって独自のリズムが生み出されていた。前半では、同一メロディーが繰り返される音楽が延々とバックに流れていたが、彼女のリズムはそれに負けて隠されることもなく、自律して音を奏でていたのには目を見張った。もし無音で踊っていたとしても、身体の有機的なリズムがシーンを成立させたはずである。
 作品全体の構成もバランスが取れていると感じる。奥から手前に伸びる照明の中を歩く姿は物寂しさを背負い、薄暗い照明の中で電子音と共に踊ったシーンでは、孤独さを想起させた。ただやはり、先にも触れた意外性がどこかに欲しい。バレエ出身者の人口には及ばないかもしれないが、ストリートダンスからダンスの訓練を始めてコンテンポラリーダンスに転向したダンサーは、非常に多いからこそ、踊りに対する真摯な姿勢以上の何かを求めたくなるのである。振付の構成や身体で音を奏でるセンスなど、恐らく訓練によって身につき難い能力が光るダンサーであるがゆえに、期待がさらに高まった。

⑤「pure( )」
 『pure( )』の主役メディアは、身体と映像である。
 白いシャツを着て舞台の真ん中に立つ振付家・遠藤僚之介は、観客に背を向け、直立姿勢を崩さない。その周りでは、黒いスーツ、さらに顔まで真っ黒にした黒塗りのダンサー二人(山本和馬、いはらみく)がゆるゆると踊っている。街のクラブで見るような振付だが興奮は無く、どちらかと言えば少しアンニュイな様子である。劇場空間に、けだるい俗世の空気を持ち込んだ。
 他方で舞台背景としてのスクリーンには、川か海の水が映し出されている。肌理が人口的に整えられたようなその水面は、どの部分に注目しても同じ質の揺らめきしか見せない。そのため、スクリーンに四角く切り取られたその映像は、確かに動いているにも関わらず極めて静的な印象を与えた。そして同様に、まるで舞台空間の柱になったかのようにピクリとも動かない遠藤の身体もまた、物質的で静的だ。
 とりわけ前半、本作に登場した身体は物的な素材に近い存在であったと言えよう。白いシャツの遠藤の身体にも、真っ黒なダンサーの身体にも、しばしば映像が投影されて、それらはスクリーンの延長となった。映像の明るさによっては、黒いダンサーの姿が暗闇に消えて見える。また舞台空間が赤く照らされると遠藤も赤く、青くなると遠藤も青くなる。身体よりむしろ映像の方が、作品の演出をリードしていたと言えよう。
 とはいっても、水面の映像が現れて遠藤の身体が真っ直ぐ向き合う瞬間にだけ、両者の対等な関係性が垣間見えた。柱のようであった遠藤の後ろ姿は水を見つめる人としての相貌を取り戻し、かつ周囲で醸された俗世の空気から隔離された空間がそこに一時的に立ち上がる。
 後半においては身体の存在感が増した。遠藤が最後にみせた踊りは実際のところ非常にスピーディーでも、またエネルギッシュなわけでもない。しかし背景の映像が猛スピードで切り替わることで、身体が細かく、かなり激しく動いているかのような視覚的イリュージョンを生んだ。日常的な街の風景(に見える)の断片がノイズのように超高速で切り替わってゆく、モノクロームの映像だ。それを観ていると、急行電車が目の前を猛スピードで通過する時の、あの一瞬の驚きとその後の小さな疲労を、休みなく同時に与えられているような感覚を覚える。電車がレールの上を走る「ガタンゴトン」のような刻みの音もまた、その効果を助長した。  近年、美術館におけるダンス上演が欧米で増えたことから、その是非をめぐる議論が活発になっている。例えば上演時間が制限されたり、劇場であれば発揮できる演出効果を実現できなかったり、観客の立ち位置や入場のタイミングに彼らと作品との出会い方が左右されたり、といった美学的問題がある。しかし仮に本作が美術館に持ち込まれたとしても、それが作品の命とりになるとは思い難い。むしろ、本作が映像を駆使したいわゆるインスタレーション・パフォーマンスの形になったとしたら、それもまた面白いことになるのでは、と想像させられた。遠藤のようにビジュアルアートの領域から、その後パフォーマンスへと表現の幅を広げて自作品を発表するアーティストは、関西に少ない印象がある。ぜひ同じ作品を、また別の空間でも見たくなった。

吉村雄太

純粋身体を巡る冒険―身体の内なる文法の探求へ

「ダンスの天地vol.01」は2018年9月2日(日)に行われた。「ダンスの天地」は「ダンスの自明性を問う」をテーマに掲げて2018年から始まったコンテンポラリーダンスのショーケースである。
筆者自身は神戸大学発の批評雑誌『夜航』のメンバーであり、縁があって今回批評させて頂くことになった。とはいえコンテンポラリーダンスはおろか、バレエやジャズダンス等、ダンス全般を習ったことも学んだこともない。鑑賞経験も決して多いとはいえず、ダンスに関してはいわゆる素人である。そのような人間がプロのダンス批評家である竹田真理さんや、ご自身も実践家でいらっしゃる岡元ひかるさんと肩を並べて批評させていただくのは大変恐縮である。
率直に言うと、ダンスについての型や文法を知らない私が何かを語ることができるのだろうか、という不安を始めのうちは持っていた。しかしながら本公演の鑑賞を終えて、そうした不安は杞憂だったのかもしれない、と感じるようになった。それは「ダンスの天地」を鑑賞して、あえて大袈裟な言葉を使えば私なりの「ダンス観」のようなものをわずかばかり発見できたからかもしれない。そうした意味で「ダンスの天地」は私にとって驚きと発見と興奮に満ちたひと時だった。
このことは最後に論じるとして、まずは「ダンスの天地vol.01」を鑑賞して感じたことを素人目線ではあるが、一つ一つの演目を振り返りながら、論じさせて頂きたい。

 まず初めの『うちそと』は...1[アマリイチ]による演目である。演目が始まると、舞台中央上手に益田が、下手に斉藤がスポットライトを浴びて立っている。観客は闇の中でスポットライトにくり抜かれた益田と斉藤を見ることになる。クラシックピアノの曲が流れる中、二人はスポットライトの「うち」でそれぞれのダンスを踊っている。二人は別々にダンスをしているのだが、時折そのダンスが互いにシンクロしたりシンメトリーになる瞬間があり、それが心地よく感じられる。 音楽の変化に伴って、舞台上が徐々に明転していく。益田、斉藤ともにスポットライトの外に出ることはないのだが、舞台上の地明かりがつくことで、それまでスポットライトによって区切られていた益田と斉藤の空間が溶け合い、二人のダンスそのものもシンクロ率を増していく。しかしあくまでも二人は個々にダンスをしているだけである。フィナーレに近づくにつれ、客電が灯され、今度は舞台上と観客席との間の空間が曖昧になってくる。そして益田と斉藤は遂にスポットライトの「そと」に出て、舞台後方へとゆっくりと下がっていく。そのまままるで今まで溜めていた力を放出するように、全速力で舞台前方観客席ギリギリまで走って来る。その後暗転があり、暗転の中で中央にスポットライトが落とされて完全暗転される。
『うちそと』は照明を使いながらダンスの自明性を問うた作品だと言えるだろう。
うち/そとを区切るためには仕切りがいる。まずはスポットライトによって益田/斉藤といううち/そとが区切られ、観客はその区切りに焦点化される。その後、舞台上の地明かりが益田/斉藤といううち/そとの自明性を解体していく。その二者間のうち/そとが解体されると、今度は舞台と観客席といううち/そとに焦点化されていく。そしてその区切りも客電によって融解されていく。
最後に暗転下で舞台中央に灯されるスポットライトは、観客を舞台上へと誘う。なぜなら益田/斉藤はすでに舞台上には見えず、もうその演舞を終えているからだ。かつ舞台中央という場所は、益田/斉藤が一度も使っていない空間である。演舞の際に使用されなかった空間をわざわざスポットライトで照らす必要は本来ない。しかしその空間が照らされることによって、まるで益田/斉藤以外の三人目の人物がこれからそこで踊りだすような印象を観客は持つ。そしてその三人目とは誰かと考えたとき、観客は自分自身がその三人目なのかもしれない、という可能性に思い当たる。なぜなら、すでに舞台と観客席といううち/そとは本ダンスにおいてはすでに解体されているからだ。もちろん、実際に観客が舞台上に上がって『うちそと』の続きのダンスをする、などいうことはないのだが、益田/斉藤はまるで観客に一緒にこの続きのダンスをしようと呼びかけているようである。そして二人のダンスは、観客がその呼びかけに応えたいと思わせられるくらいの熱量をもったものであった。
アマリイチは観客席と舞台という自明性を問い、観客をダンスへと誘ってくれるような、「ダンスの天地」の始まりとして素晴らしい演目だったと言えるだろう。

2作目は原和代振付による『呼び合う声、朝と夜』。地球の裏側にいる男と女の恋愛を描いた作品だ。開幕とともにドヴォルザークの『新世界より』が轟音で流れる。朝を演じる竹ち代毬也は赤いパーカーを着ており、夜を演じる高瀬瑤子は青いパーカーを着ている。二人は舞台中央で互いに腕を伸ばし合い触れあうような動作をするも、決して触れあうことはない。朝は決して夜に触れられない。このダンスの見どころは、互いを呼びながらも決して触れ合わないという点にある。そのように互いを呼び合うようなダンスが披露された後、夜は舞台上から去っていく。
一人残された男(朝)は、舞台上に置かれた台車に乗って遊ぶような動作をする。するとスピーカーから大音量で男の笑い声が流れる。これは男の不貞行為のメタファーなのだろう。女(夜)が現れると、男は悔い改めたように正座し夜に向き合う。女はそのまま男が遊んでいた台車に乗って一人台車を漕ぐ。何周かした後、和解の印として女は男に台車の手綱を渡す。男は女が乗った台車をゆっくりと漕ぎながら舞台上を周回する。その周回の折、風雨の音や動物の鳴き声、虫の羽音、街の喧騒が流れる。
台車を周回する行為は幾度も朝と夜を繰り返しながら男女が生きてきた、人類史の遥かな旅のように思われる。舞台上にいる男と女も決してある特定の男女なのではなく、男女の想念というべきものに違いない。
男が台車を手放し、女が台車から降りてしばらくすると、女はおもむろに男に近づいて女は男の着ているパーカーのジッパーを後ろからそっと降ろしてやる。作中で初めて、男と女が触れ合うシーンである。男(朝)と女(夜)は互いにゆっくりパーカー脱ぎ、長い年月を経て雪解けしたように、二人で喜びを表しながら舞台上を踊る。そして最後には男が女の手を取って、まるでランデブーする若者のように去っていく。
 『呼び合う声、朝と夜』は地球の裏側にいる男女と、地球の裏側の朝と夜という関係をうまく使いながら、ただの二人の男女のラブロマンスの留まることなく、幾度も反復されてきた人間の営みの歴史を描いた壮大なスケールの作品であった。地球の反対側で、決して触れ合うことのできない男と女、つまり朝と夜が最後にパーカーを脱がしてやるという形で触れ合う瞬間は、朝と夜が合一する瞬間だと捉えることができ、夜が明けて新たな一日が始まっていく恍惚感があった。

3つ目のダンスは木村愛子による『人はどこまで進化を望むのか?』。開幕と同時に観客は度肝を抜かれる。というのも、獣のように横跳びをしながら舞台に現れる木村についてくる形で、ぞろぞろと白い風船が現れてくるからだ。木村と風船はテグスで繋がれているのだが、その数は七十個にもわたる。照明を浴びて白く濁った風船はまるで何かの生物の卵のようだ。木村はしばらく立ち止まって、急にその七十個にわたる風船を一つ一つ割っていく。その姿は暴力的でもあるが、無邪気な子供が遊んでいるようにも見える。
割れた風船は舞台上の下手手前から上手奥まで舞台を突っ切るように斜めに残り、魚か何か生物の背骨のように見える。木村はその背骨からいくつか風船の残骸を拾うと、それを花びらのように折って、舞台上手に置いていく。いくつか花びらを作って置くと、暗転される。
そこから暗転明転を繰り返しながらいくつものシーンが挿入されていく。その度に木村の立ち位置が変わり、別の時代、別の場所にタイムトラベルしているようである。
途中で風船の残骸を持ち上げ口元に持っていく動作がある。それはまるで肉を食べる動作のように見える。風船はここでは動物の肉や骨のメタファーだろう。人間が進化するに従って肉を食べるようになったことを示唆しているのかもしれない。また化学薬品を飲むような動作も挿入される。これはあるいは科学の発展と、その副作用を描いているのだろうか。その後銃声のような音が響き渡り、その中で木村は何度も倒れそうになりながらも倒れることなく立ち続ける。音が鳴りやみ暗転が終わると、木村はまた風船の残骸持っている。そしてその残骸を黙って悲しそうにバラバラと手のひらから零れ落とす。その姿はまるで遺灰を地面に撒いているようである。
風船の残骸を地面へとばらまいた後、左腕が勝手にまるで何者かに操られているかのように勝手に動き出す。右手でその左腕を抑えようとするも、抑えることができず左手に翻弄されるように体全体が持っていかれる。どれだけ理性を以てしても進化を止められない人間の姿が提示され、ダンスは終わる。
本作において、木村という「一人」の身体に、「複数」の人間の姿、人類の姿が示されているように私には感じられた。この点を私は非常に興味深く感じたため、後述したい。

4つ目の作品は野口友紀の『individual』。本作は主に4つのパートに分けられる。まずはガールズパンクのような音楽に合わせてのダンスのパート、暗転下での無音のパート、機械音の中でのパート、シャンソンのパート。ストリート系ダンスから徐々に自己の内面に潜っていき、最後のシャンソンで理想の自分を見つけて解放されるような印象を持った。
本作のダンスはタイトルの通り、野口自身の身体の「個」性、自身の身体を追求していくようなダンスであった。とりわけ印象的だったのは、暗転下におけるダンスだ。暗転下、観客は視覚を奪われる。その中で、ただ演者の息遣いと身振りの音が聞こえてくる。その息遣いと、演者の体が劇場内の空気を揺らすことによって、むしろ観客は生々しく演者の身体を意識させられる。またそのことを通して、観客は自分自身の身体にも自覚的にさせられる。
ダンスは身体の動きを見せる身振りの芸術であるにも関わらず、観客の視覚を完全に奪ってしまうという点に心惹かれた。当然ではあるが私たちには五感が備わっており、ダンスを鑑賞する際、視覚のみならず、聴覚や触覚等も用いて鑑賞しているはずである。しかし劇場でダンスを鑑賞する際、わたしたちはダンサーの身体を「見る」ことを無自覚のうちに自明の条件としている。というのも、バレエ等劇場で行われる身体表現は一般的に、身体表現を視覚的にどう「見せるか」を追求する芸術であることが多いからだ。しかしながら、身体は聴覚や触覚によっても知覚できる。息遣いや演者のダンスによって空気が動かされるのを私たちが肌で感じることで、演者の身体が浮き彫りになる。むしろ視覚を奪うことで、かえって生々しく野口という「個」の身体を感じられることができた。
本作はダンスというものは身体を「見る」芸術だ、という私の中に無自覚にあったダンスへの自明性を問うてくれるような作品であった。

最後の作品は遠藤僚之介による『pure()』。
明転と共に舞台上には真黒なタイツを全身に着た男女と、観客席に背を向けて舞台中央に立っている男(遠藤)がいる。背を向けている男が本作の主役であり、全身タイツの男女は黒子としての役割を担っている。
黒子の男女はガールズヒップホップによって遠藤をダンスに誘おうと何度も試みる。しかし遠藤は背を向けたまま決して動くことはない。時折舞台上には真黒な水が流れている映像がスクリーンに映し出される。遠藤を誘惑している黒子の二人はその映像に目を向けることはないが、遠藤は動かず映像の方を見つめている。映像は男の心象風景なのだろう。その真黒な水の流れる映像と黒子たちが踊るガールズヒップホップの間には大きな隔たりがある。おそらく黒子たちの踊っているダンスと、男の中に流れる固有のリズム(つまり水の流れ)は全く別のものなのだ。
男が黒子たちのダンスに乗ることは一度もなく、黒子たちは舞台上から去っていってしまう。一人残された男はやはり背を向けたままスクリーンを凝視している。男は自分のリズムを見つけたのだろうか。次第に耳をつんざく音が高鳴っていき、男は初めて観客席に向いて踊り始める。スクリーンには高速で過ぎ去っていく街並みの風景が映し出される。男はその映像を背に舞台上を縦横無尽に駆けていく。男は日々都市の喧騒の中で生き、男の体内の中では都市の喧騒や水の流れといったリズムが染み付いていて、そのリズムを表現しようと必死にもがいているようである。それはガールズヒップホップのような人工的な作られた「型」によるダンスではない。自分の内なるリズムを何とか表現しようともがくダンスだ。男は音が鳴りやむと同時に暗転し、ダンスが終わる。
 公演時間の大半を観客席に背を向けているダンサー、遠藤(男)の姿は観客に重なる。舞台中央で黒子たちのダンスを見ている遠藤のように、観客もこれまでにダンスの公演を見てきたはずである。様々な型の、様々なダンスを見て感動し、時に圧倒されながら、少なからず影響を受けて観客は劇場を後にするだろう。あるいは見た公演から影響を受けて自分もダンスを始めようとするかもしれない。でも大事なことは、自分の内なるリズムに耳を澄ませて、そのリズムを表現することだ。何かの「型」に自分を当てはめて自己を表現するのではなく、自分自身の内なるリズムを表現することがダンスの本来の営みなのだ、という強いメッセージ性を感じさせる作品だった。「ダンスの天地vol.01」の締めくくりにふさわしい作品だったといえるだろう。

以上、簡単にではあるが「ダンスの天地vol.01」で披露された5つのダンスをみた。いずれも全く違う傾向性を持った作品であったが、共通していたのはいかにしてダンスという「型」から逸脱するかという点と、いかにして観客をダンスに誘うかという点にあったと思う。
 アランは『芸術の体系』において、身振りの芸術つまりダンスの特徴は、見る人を楽しませるのは二の次で、本来の目的は演者自身の喜びにあると主張した。こうした身ぶりの芸術について見物人が判断を下すには、自ら体の動きを真似るか、自分の体に染み込んだ伝統を基準にするしかない。ダンスという芸術は、演者が観客のことを考えず、徹底的に自己の身体に内在し、自己自身の身体を追求していく喜びを見せつける営みなのだ。そしてそのことを通して、観客の身体に沈みこんだ内なる身体の伝統が呼び起こされるのだとアランは考えた。
 本公演で披露されたいずれのダンスも、このようなアランのダンスの定義に即した作品であったように思う。例えば『individual』はまさにダンスを通して徹底的に自己の身体の内に沈んでいくことで、観客の身体感覚を揺さぶる作品だった。実際に私自身何度も自分の身体が揺すぶられる感じがした。
とりわけ『人はどこまで進化を望むのか?』は、徹底的に自己の身体の内にこもっていくことで、自己の身体だけでなく、「人類」の身体とは何かを問うレベルにまで達していたように思う。木村のダンスは、ダンスの「型」としてデフォルメ化された身体の動きと、サンプリングされた日常生活の動作(花を摘む等)を織り交ぜながら、舞台上に「人類」を生み出した。
当然舞台上にあるのは木村ただ一人の身体なのだが、人間が取りうるだろう動き(それは必ずしも日常の動作とは限らない)を突き詰め、また木村自身の体の内に眠るリズムを徹底的に突き詰めて、それを舞台上に表現することで、身体としては木村個人の身体なのだが、そこに現れているのは「人類」の身体だと言えるような境地に達していたと思う。
そもそも人は皆生きてきた背景が個々に異なり、体の中に流れているリズムも個々に違う。にも関わらず同じ人類だからこそ、共通の身体の文法を体の奥底で共有しているはずである。でなければ、そもそも他者の身振りが何を示しているのか理解することはできないだろうし、ダンスのような身振りの芸術は理解不能なものになってしまうだろう。ならば自己の内部を徹底的に突き詰め、その中に流れる普遍的な身体の文法とでもいうべきものに辿り着き、それを理解できる形で翻訳して再提示することが、優れた身体芸術なのではないだろうか。そして木村の作品はそのレベルにまで達していたのではないかと、私には思われた。
それはベンヤミンが純粋言語と呼んだものに近いかもしれない。ベンヤミンは英語やドイツ語、フランス語といった言語が(常に誤訳が付きまといながらも)翻訳可能なのは、そうした言語の背後に全ての言語を統一する純粋言語というものがあるからだと論じた。純粋言語から、英語やドイツ語といった個別の言語が生まれたのである。
身体についても同じではないか? ボディランゲージや、ダンスにおける身振りが指し示す意味は国によって異なるが、にも関わらず異国の人間の身振りが何を示しているかを私たちは直感的に理解することがある。それは純粋言語のように、普遍的な身体の文法とでもいうべき、純粋身体のようなものがあるということにはならないだろうか。
そうした表現はおそらく「型」だけでは表現できない。「型」というのは、人工的に作られた文法であり多くの人が美しいと感じる表現を定式化したものである。例えばバレエやモダンジャズ等、ダンスにはいくつかの「型」があるが、それらは人を効率よく感動させるための技術である。人間の身体を追求していった時、誰かが美しく、心地よいと感じたある一定の身振りを、ある種の文法として定式化したものである。だからその「型」を習得することで、ある一定レベル人を感動させるダンスが可能になる。しかし、それだけでは不十分だ。なぜなら「型」となってしまった身振りにはダンサーの個人の身体の固有性が積極的に排除されているからだ。「型」を身につけることで、ある一定まで人を感動させることはできるが、「型」に完全にハマってしまうと、ダンサーの身体の固有性を表現することは出来なくなる。
哲学者のヘーゲルは「普遍」は「特殊」なる形を通して「具体的普遍」を実現すると論じた。特殊、つまりこの場合ダンサーの「固有」の身体というものを徹底的に突き詰めることで、初めてそこに「具体的普遍」というものが表現される。「型」を離れてもう一度自分自身の身体の「固有性」に立ち返って自分の身体の奥底に眠る普遍的な身体の文法とでもいうべきものに触れることで、逆説的に「私一人」ではない「人類」の身体という普遍的なものに至れることができるはずである。そしてダンサーがそれを表現することで、観客は「型」という人間が人工的に作った感動ではない、別の感動に出会えるのではないか。それは観客が「型」という人工的に作られた文法を知らなくても生まれる感動なのだ。なぜなら観客自身の中に元からあるはずの文法なのだから。
私がダンスを見るにあたって不安に感じていたのは、ダンスの「型」を理解できないのではないか、という点だ。英語を習ったことのない人が英文法を理解できないように、ダンスを習ったことのない私に、ダンスの文法を理解することなど可能なのか?という不安が常にあった。実際私は本公演で提示されたダンスの「型」としての文法を正しく理解できていないかもしれない。しかしながら楽しく、時に心に突き刺さるような切実さを感じ、ダンサーの感情と自分が共振する感覚を覚えたのは事実だ。そういった点で本公演はいずれの作品も、「型」に立脚しつつも、それを逸脱するような点があったように思う。でなければ、「型」という文法を共有していない私が何かを感じ、感動するということもなかっただろう。
そして何より、『うちそと』や『pure()』等の作品は私をダンスへ誘ってくれているようで、それが気持ちよく快感だった。言葉による抽象的な議論はさておき、アランの言うように、優れた身体を見たときに自分がそれを真似したいと感じるその気持ち、身体の共振こそがダンスの本質なのだということを教えてもらったのが、私にとっての「ダンスの天地vol.01」だった。