ダンスの天地
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竹田真理

90年代後半に活動を開始し、2000年より関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等を執筆。ダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。

冒険者たちへ
 

ダンスの快楽は多くの場合音楽と結びついている。鼓動と同期するリズム、感情の起伏に即応するフレーズは、踊り手、観客の双方を身体の内側から揺さぶる。優れた舞踊手の演技を見る時、私たちは、音楽に合わせて踊りが踊られるのではなく、踊り手の身体からこそ音楽が生まれ出る瞬間を目にする幸福を噛み締めつつ、舞踊と音楽が同根の芸術であることを知る。古代ギリシャにおいて詩、音楽、舞踊、演劇がムーシケー(=学芸)として括られて以来、ダンスは時間とともに現れては消える上演芸術の系譜に置かれ、創造行為の主体(踊り手)と成果物(踊りという現象)とが不可分の関係にある芸術の分野としてその歴史を紡いできた。この主客分離の困難な分野においては、踊り手の身体から生まれた成果物であるダンスを鑑賞の静的な対象=作品として身体の外部に置くことは出来ないし、創造される過程においては、ダンスは内的な動機とともに身体と不即不離な形で、いわば自動詞的に現われる。舞台芸術としてのダンスに限らず、村落共同体で伝承されてきた民族舞踊でも、或いはより身近な例ではダンスホールやクラブで踊られるダンスであっても、大地を踏み鳴らす原初的なリズムやグルーヴとよばれる音楽的なノリが、身体に眠るプリミティブな記憶と同期し、或いはその場を一体感ある恍惚状態に導くといった場面は多い。音楽にのり躍動する身体の主と客、内と外の境界を限りなく曖昧にしながら、ダンスは本能に根差した発露であるという実感を私たちに抱かせ、人類の誕生とともにある根源的な芸術であるとの言説を生んできた。
その自動詞的な、存在と不可分な現れとしてのあり方からダンスを切り離し、踊る身体の外部に思考の対象として置いたとき、舞踊史の外へと出ていくダンスの挑戦があるのだと思う。「ダンスの天地」に出演したダンサーたちは、それぞれがたった一人でこの未踏の地に踏み出した冒険者といってよく、コンテンポラリーダンスがスタンダードな方向を向いていると感じられる今日(それにも必然があり尊重されるべきことだが)、個々の実践を通して批評的な視点を提出し得たといえるのではないか。出演の6組のうち4組までが自らを振り付け踊るソロダンスであったことも、踊りという行為・現象の対象化について考えさせられるきっかけとなった。言い添えたいのは、これらの冒険的なダンスのあり方は歴史や系譜では語れないということだ。音楽を離れ、ダンスを他動詞化する、いわばダンスについてのダンスを思考する実験は、ポストモダンダンス、或いはそれ以降の展開において試みられてきたことではある。だがそれらは引き継がれ、系統立てられるものではなく、先人が既に通った道であることを理由に、現在の切実さから生まれる試行が価値を失うことはない。すべてのダンスの冒険者はそのつど未踏の地に立っており、それぞれが孤独な探求に踏み出すのであり、舞踊史から遠く離れた常なる今を生きることになる。
以下、上演順に個々のダンスを振り返る。

 京極朋彦『DUAL』は自身のからだをぽんと遠くへ放り、距離を置いて眺めているような俯瞰した眼差しを感じる作品だ。暗転なし、無音のまま舞台に入ってきて、すっと片足立ちになる。さりげない始まりだが一瞬で舞台の空気を掴む。そこから床上の動きに入り、背で床に接地しながら、身体の中に動きの自然な流れを探っていく。削ぎ落とされた身体からは骨格の様子が手に取るように分かり、たっぷりとしたTシャツをまとった姿には、体に風を通すような素朴で開放された印象がある。弦の音とパーカッションによる控え目な音楽が入り、ムーブメントではなく構造を探る飾り気のない動きに寄り添う。床での横臥、四つ這い、直立。照明を落とした舞台の中央で、サルを真似たような横跳びで大きく円周を周り、円の中心で垂直のジャンプを繰り返す一連の流れは、背骨をもった生き物の進化の過程を辿るものだろう。静かなトーンで進む作品の中で、ここはダイナミックな運動性が前面に出る場面だ。 浮かび上がるキーワードは「骨」である。身体の屋台骨、あるいは乳白色のカルシウムの固まりとしての骨。とりとめなく配置されるかに見えた動作や姿態は、このキーワードのもとにすべて意味あるものとして映り始めた。動きの合間にふと身をかがめ、両の手指をピアノを弾くようにぱらりと床に落とす。指が乾いた音をたてると、骨の欠片が鳴るかのようで、手指の関節の複雑な作りと物質感が伝わる。両手を拳に丸め、足指の甲の側で接地し、四つ足でくっきりと立つ姿には、博物館に展示された太古の動物の骨格が連想される。
骨が語るのは悠久の時間だ。肉体が朽ちても残る骨は、一個体の生のスケールを超えた異なる時間を湛えている。一方、筋肉は徹底した今の時間に属する。また、骨が不随意の構造であるのに対し、随意に動く筋肉は意志と力に結び付く。京極朋彦の自作の上演を見るのは久しぶりだが、以前の京極が抜群の筋力とバランス感覚で自らの身体を完璧にコントロール下に置き、例えばソロ作品『カイロー』では孫悟空さながらのやんちゃさで躍動感あふれる舞台を作っていたことを思うと、今、目の前にいる京極は静かに身体の声に耳を澄ませ、本質へと分け入っていくダンスを志向しているように見える。筋肉から骨へ、筋肉が司る力と意志の踊りから、骨の語る記憶と構造の対象化へ。それは身体の内側に他者を見出す試みと言ってもいいだろう。骨の欠片をころりと転がして眺めながら思索するダンサーの姿が目に浮かぶようだ。仮に身体の表象を組織別に見るとすれば、皮膚は世界との界面であり、自己とそうでないものを分け隔てる。筋肉はみなぎる生命力や官能の発露であり、意志と力に関わる。内臓は奥底に抱え持った衝動や欲望の源泉であり、これらはコントロールを超えて表出し、時に自らを裏切る。そして骨はこれらがすべて消滅した後も存在し続け、かつてあった生の記憶を異なる時間に届ける。皮膚が世界に対して閉じた身体は、骨によって外へと開かれるのかもしれない。京極の垂直ジャンプは上へと向かう力と同時に降下時の脱力を含むが、重力に委ね、崩壊に甘んじる不随意な局面を持つことでむしろ、開口部のたくさんある開かれた身体、コントロールの自在さとは別の自由な身体を得つつあるように思える。
跳躍の場面に限らず、削ぎ落とされ、隅々まで開拓された身体は、細やかに動作や姿態を連ねる。ランダムに繰り出されるようでいて、構造を把握し、身体のエコノミーにかなった動きには無理や無駄がなく、何をどう動いても面白い。音が止み、光の中で両手を水平に上げた十字のフォルムの彫像的な美しさ。それらを時間という制約の中で、刻々と実らせていく。けだるいジャズが流れるが、決してリズムやグルーヴに身体を預けるのではなく、外の眼で身体を眺め、観察し、対話し、思考する過程としてのダンスがある。もう一度自然光に戻った舞台を、ゆっくり歩いて下手に去っていくが、去り際に不意に振り返り、頭に手を乗せ、ひざを折ってしゃがみ込む。その瞬間照明が落とされるのだが、このラストシーンは言葉に尽くし難い。なぜ振り向いた、なぜ手を頭に、なぜしゃがみ込む、どこにも理由はない。ただそのように振る舞う身体がそこに居たという単純な事実が、鮮やかな残像となって刻まれている。今思えば、彼は進化の過程の遠い時間に還っていこうとしていたのだが。

 山崎モエ『水のキオク』は動きの質感を一途に追求する作品で、灯りの下の一点に立ち、動きの執拗な反復・持続のみでクライマックスまで昇り詰める。完全暗転の中、音響が低音のリズムを刻み、舞台中央の光の輪の中で、ダンサーの前屈みの身体がうねるように揺れている。柔らかくグラインドしながら左右に波打ち、足元から湧き上がるうねりが体中を伝播する。身体は質感と印象を刻々と変えながら、永久運動のようなめくるめくムーブメントを送り出し続ける。柔らかく、ぬめるような生体的な質感をもつ一方で、動きは電気仕掛けの機械のようなシステマティックな印象も与える。自発的に動くというより、地面から受けた波動が身体の内部を移動しており、始まりも終わりもないエネルギーの流れが、偶然に身体を通り、「動き」に変換されて現れているだけのことにも見える。脈打つリズムに踊り手の自我の入り込む余地はなく、情緒的な要素も一切排除されている。一つの方法論の追求が作品の強い輪郭を作っている。
タイトルから「水」のイメージの作品化だと分かるが、生命の源などといったありきたりなイメージではない。鼓動のような低音のリズムや金属の重いノイズなどの音響が不穏な気配を醸していて、人間の身体とは異質な何か、スケールの異なる大きなものの存在が暗示される。ダンサー自身の短いテキストに「体内、胎内」と「地球」を繋ぐものとしての水が語られている。生物と鉱物の間にある水、それ自体では形を成さない水、絶えざる流れとして現れる水。地層に重く堆積し圧縮されたエネルギーと、地質学的なスケールの時間を湛えて現在に流れ続ける水は、踊る身体を絶え間なく動かす力の暗喩にもなっている。
ノイズがいっそう軋みを増すと、身体は痙攣的な振動を見せ始める。もはやリズムは消滅し、動き自体がノイズと化して一つの頂点を迎える。だが動きに特化された本作が本当の展開を見せ始めるのは、終盤で初めて光の円の外に出てからだろう。円の周囲をスタスタと歩くのを見て、これがある種の「破れ」であり、ここまでの踊る身体を相対化するように思われたが、真意については本人に聞いてみたかった。

  大熊聡美『苺ミルクの妖精になりたい』はダンス以外の語る内容を持った作品で、心理や感情、内面性や社会性、もしかしたら政治性にも関わる内容を扱い、小道具を用いて様々な表象を組み合わせ、主題を浮き彫りにしていく。
舞台には白いぬいぐるみが一体。ダンサーは爪先立ちでバレエのパ(ステップ)を細かく刻みながら登場する。スカートを両手でつまみ上げ、その上にたくさんのキャンディを盛っている。ジャパニーズ・ロックがベタな歌詞で愛や青春をシャウトし、ダンサーはバレエの語彙を用いて多幸感を全身で表現する。その表情は奇妙に過剰で、菓子を床にぶちまけた瞬間、驚いたように息を呑んで両手で口を覆い、しばしフリーズする。ここから踊りは暴走し、徹底的に破壊される。腕をぐるぐる振り回し、身体が高く上へ伸びたと思うとオフ・バランスからバタリと倒れ込み、床を転がりヒコーキのポーズに満面の笑顔。バレエを意味やパのつながりから解体しパロディ化していくのだ。いびつに硬直する指先、ガタガタと震えるアラベスク、音を立ててシコを踏む足など、カリカチュアライズされた動作や表情はある意味見栄えがするが、次第に踊り手が内に抱える葛藤や苦悩が垣間見えてくる。
ここまではいわば前段で、ここから息詰まるようなパフォーマンスの核心へ入っていく。ダンサーは手元にあるバスケットの中から紙パックの牛乳とグラスを取り出し、床の上で静かに牛乳を注ぐ。続いて両手いっぱいの苺を掴み出し、手で押しつぶし、牛乳の上に果汁を滴らせる。何かの儀式のようでもあるが、苺にまみれた手は血で汚れたようにも見え、その手を掲げ見るダンサーは恐ろしいものを見たという表情をする。立ち上がり、その場で身を返して一回りすると、今度は指先を牛乳=苺ミルクに浸し入れ、せつなげな表情で腕に液体をなすりつける。また一回り。このサイクルを何度か繰り返す。白と赤の液体は性的なイメージに繋がり、儀式のような所作には性にまつわるイニシエーションの類が連想される。生々しく、痛みを伴い、もはやイノセントでいることはできない自らを受け入れていく過程で、不安や葛藤が彼女を苛む。背後には無垢と幸福と懐かしさの証のぬいぐるみが置かれ、手前には自身のセクシュアリティを象徴する「苺ミルク」がある。二つのアイコンの間で交互に身を返しながらパフォーマンスは繰り返される。「苺ミルク」は身体的な性のみならず、性を介して結ばれていく関係性を暗示し、そこに含まれる支配や抑圧、暴力の予感もまた彼女を恐れさせる。因みに性を介した関係性とは公私にわたるものであり、女性であるがゆえに社会が強いる困難を含む。ダンサーは手についた液体をぬいぐるみになでつけ、大切にしてきたものに別れを告げる。何度目かのサイクルで少しだけ身をかがめ、慄(おのの)くような白鳥振りをみせる。美しく、悲しみに富んだ羽ばたきだ。
終盤には、自身の胸を切りつける、目を突くなどのショッキングな自傷的仕草があるが、その中で腕を右へ、左へと大きく広げ窓を開けるような動作が、このサイクルからの解放への希求を感じさせた。衝撃的なのは自身の目を突いた人差し指で客席を指差す時。自傷が他者への反撃に転じ、誰一人、彼女に痛みを強いた罪を免れる者はいないのだと鋭く問う。
自身の身体性に根差した存在の切実な叫びが見る者を強く揺さぶる内容で、とくに#Me Too運動や女性の置かれた社会的な状況に声が上げられた現在、本作はこれらの声と大いに共振するだろう。フェミニズムの視点からも、また政治的にも読まれ得るが、何より痛みや葛藤、切ないほどの憧憬といった自らの内面を衒いのない直球で表現していて胸を打つ。多くの人に届いてほしい作品である。

高瀬瑤子『シンタイカする器官』は、ダンスの規範や美意識の外に出て徹底した外部の眼で身体を見つめ直す。ダンスが成立するか否かのエッジに立っている。
舞台中央の灯りの中に、逆さに突き上げられた足が照らし出されている。ライトが照らすそれは、例えばブロンズ彫刻のような不定形で抽象的な物体にも見える。前半は床に背を着けた姿勢からの足の動きが続く。空中で180度以上開脚した脚は、鍛えられた身体の強さとしなやかさを印象づけ、ライトの作る陰影は筋骨の隆起を露わにして、肉体の物体感、量塊感を伝える。足の指が奇妙に動くと、そこだけが別の生き物であるかのように映る。左右の脚が交差して立ち上げられ、それが下ろされ、足先が床を小刻みに打ってパタパタと音を立てる。意志のない器官が勝手に動くかのような奇妙な感覚だ。これらは確かにヒトの足なのだが、舞台の上では一個の有機物の固まりであり、床を打つ爪先も、交差する脚も、それ自体は意味をもたない。というより、従来の意味の網目の外の、なんら比喩も見立ても通用しない世界で、単純で純粋な物質の量塊としてそこに在る。
タイトルの「シンタイカ」は「身体化」のうえに「進化」、「退化」を重ねたものか。身体各部位は内的なつながりによって統制された全体感を欠き、それぞれが独立した物体感を示し、互いに関係し合う必然性がない器官どうしである。だから臀部は二つに割れた筋肉の山で、それぞれのすそ野が開脚した足に続いているというように、ただ外観によって記述されるほかないようなモノとして身体がある。ある意味過酷な、むき出しの物質の領野で、意味や機能や美学を引き剥がし、全く違った配置による身体の概念、イメージを見ようとする。バレエやモダンダンスを習得しキャリアを重ねてきたダンサーが、それまでのダンスの規範を脱し、別の領域に出ていく身体のあり様を探っている。
剥き出しの物質の世界で、身体のあり様を決定していくものは、それ自体が闇を貫く理知であるような真っすぐに伸びる脚、或いは骨格の作る軸や柱の造形性だろう。後半では動きが出てくるが、そこでもアスリートを思わせるしなやかなバネ、鋼(はがね)の筋肉や骨格の作るアクロバティックな造形が、「カラダはこのような形になり得るのか」という驚きを与える。あり得ない捩じれを見せる肉塊が、見たことのない、名付けようのない“美しさ”を呈している。

下村唯(SickeHouse シッケハウス、音楽:仁井大志)『亡命入門:夢ノ国』。台詞やコントを採り入れたコメディ調の作品で、日本人の下村、アフリカはトーゴ出身のアラン・スナンジャ、日本国籍だが台湾在住が長い伊達研人によるトリオである。バックグラウンドの異なる彼ら自身の現実を反映し、アイデンティティやコミュニケーションの構築といった政治性を伴う主題が底流をなすが、等身大の軽妙な筆致で表現しており、カジュアルなダンスシアターといえば近いだろうか。
 木枠をキューブ状に組み立てたオブジェをバケツリレー式で次々と運び入れ、高く積み上げて「家」としたり、「領土」に見立てたりしながら、互いのアイデンティティに纏わるQ&Aを交わし合う。木枠は組み合わせで椅子やベンチに変化し、ダンサーが椅子取りゲームで“領有権”を争うとかベンチの上に寝そべるなどシーン展開のための有用なツールである。ダンスの振付はごくシンプルなもので、アップテンポな音楽を背に、立つ、座る、寝そべる、上体を起こすなどの動作をアレンジしている。動きの質や形態を追求するアーティスティックなダンス作品とは一線を画し、他者や隣人との関係性や社会の諸相といった内容をシアトリカルな方法で描き出していく。下村は「君は誰」「職業は何」「踊ってみてくれ」との声と対話しながらソロを踊り、ここはレクチャー・パフォーマンスの手法をとっている。
3人のユニゾンではヴォーカルの入ったポップスがかかり、並んで肩を寄せ、腕をゆらし、盆踊りのような気安さのある振付を踊る。その気安さ、声高な主張のないカジュアルさが無名の一人一人の人生を寿いでいる。それぞれの場所から来た者たちは、ここからどこに向かうのか。ダンスは旅の途中に差し挟まれた存在論的な問いの時間にもなり得る。現在のところは長編のための習作的な段階のようで、ここからダンスの強度を増すのか、社会的な、あるいは哲学的な(ベケット的な?)アプローチを推し進めるのか、様々な方向性に開かれているだろう。この市民的な価値観に裏付けられた作品に出会えたことは、不寛容に覆い尽くされる今日の状況にあって、尊く、幸せなことだった。

山本和馬『Rehearsal of Heaven』。遠くに舞踏の幻影を仰ぎ見ながら現代の身体を探る。出演者4人は等間隔に仰向けに横たわり、全員白い服を着ている。安置された遺体といったような生死の境界にある身体のイメージだろう。それぞれが異なる部位をごく微細に動かすことから徐々に体を起こし、前屈から背骨を一本ずつ積み上げながら、ようやく4つの身体が立ち上がる。ところがそれぞれの身体は完全に立ち切らず、立ち上げの途中の段階で宙吊りにされたかのように、曖昧な姿勢で、かろうじて立っている状態だ。立てない体がいかに立つか。「全力で突っ立っている死体」という土方巽の言葉を引くまでもなく、およそ舞踊は古今東西、いかに立つかを巡る技術と思考の歴史だとすれば、いま現在の舞踊の実践においてもこの命題は問い続けられているはずである。4人は骨格が重力を合理的に吸収する「直立」という立ち方をはずれ、いかに重力に抗い、転倒を免れ、天上と地上の間の領域に身体を留め置くことが出来るかを、瞬間ごとに自身の身体を調整しながら試みている。これはかろうじて生きるということと同義であり、生死の境界における生存のための技術を4人はそれぞれの身体で探っていくのである。足裏の接地点が絶えず移動し、上体が弾んだり、浮遊したり、あらぬ方向に引き寄せられたり、あたふたと身を返したりしながら、重力との定点なきバランスを生き延びる。和太鼓の低音のリズムが4人をあおり、空間の圧が高まるのにつれ、「立てない」という危機をどう生きるかの命題が切迫感を増していく。振付があり、リハーサルを経ての本番であるはずだが、今のこの舞台がサバイバルの現場そのものであるような臨場感、即興感のあるパフォーマンスである。リスクを負って舞台に立つこと。今回のショーケース全体を貫いた精神だろう。

中村徳仁

(神戸大学批評誌『夜航』)神戸大発の批評誌。半年ごとの雑誌刊行と、関西の人文学系のイベントへの参加を行なっている。

自己言及からの逃走―「無―自由」の領野にむけて
 

 今回の公演ではじめてコンテンポラリーダンスを鑑賞する私のような初心者にどのようなことを書くことが求められているのか。おそらく、多くの人がコンテンポラリーダンスを語ることに躊躇してしまう最大の理由の一つは、「これまでの歴史やコンテクストを理解していないから、この作品だけを見ても的外れなことを口にしてしまうかもしれない」という不安にあるだろう。「コンテンポラリー」というからには、先行したバレエやモダンダンスなどへの一種の自己注釈的な性質を持っていると思ってしまう。この企画を聞いた当初、私もそう思ってしまい、自分がこの仕事を引き受けるのに適しているのか疑問を抱いていた。しかし、そこで立ち止まって考えてみたところ、こうした事情は何もコンテンポラリーダンスだけにいえることではなく、ここ数十年のあらゆるアートの分野、そして私の属しているアカデミックな領域にも当てはまることであるように思った。
 20世紀半ばまでは、どの分野にもメインストリームを形づくる雑誌やメディア、分野の代表的牽引者が存在し、それに乗っかるにしても、たとえ反発するにしても、皆が時代時代の支配的な言説を参照することができた。そうした言説を軸に分野を見渡す地図を作製することが容易だったのだ。しかし、現代ではおそらくほとんどの分野がそのような「灯台」を失い、各人が自らの光だけを頼りに暗夜の海を漕いでいかなければならないようになっている。
 こうした多元的な状況は人々に何を強いることになるのか。それは「自己言及」である。「自分のしていることは、こういう社会的文脈や意味を捉えていて、こうしたことに役立つ」とセルフプレゼンテーションをすることが求められるのだ。これはアートやアカデミズムの領域だけの話ではない。自分のしていることがどのように受容されるかを踏まえたメタ視点というのは、実はマーケティングの発想と相性が良い(現代アートの領域なら、村上隆がその好例であろう)。そういったことからも、日本のガラパコス化した就職活動なんかは、強迫的に自己言及を求められる場の最たる例であろう。自己言及の視野とは、自らをいかに商品として市場に提示するのかという戦略なのだ。
 残酷な話であるが、バブル景気をはじめとして、裕福な時代にはこのような自己言及への駆り立てはそこまで存在しない。何かの企画を通すときにも、金持ちの気前のよいおっさんが「おもろい、おもろい、やったろ。なんぼや?」と二つ返事で上手くいくこともあっただろう。しかし、現代においては、その過程を経るのに何枚もの企画書とプレゼンテーションが必要とされる。それを経る中で、何度も何度も本企画の意味を場合に応じて説明しなければならないのだ。全体のパイがこれ以上大きくなる見込みがなく、残りを奪い合うことになると、そのようにならざるをえないのは仕方のないことではあるにせよ。私自身は現代社会が陥っているこの「自己言及への病」を全治癒することは目指してもいないし、不可能であることは従順承知である。問題なのは、「あたかもそのような病があることをないかのように」振る舞いながら、他者に結果的に自己言及を迫るような事態である。
 今回の「ダンスの天地」に最終的に私が参加したいと思ったのは、そうした病を企画者たちが隠そうとはせず、むしろそれに対して真っ向から向かい合おうとしていると感じたからである。それは、今回のテーマである「ダンスの自明性を問ふ」という言葉にまさしく表れている。ここに掲げられたテーマほど、「灯台」を見失った現代という時代の不安を表している言葉はないだろう。
 前置きが長くなったが、これもまさに強迫的に自己言及せざるをえない現代の病を反映しているのかもしれない。支配的な言説が失われた今、私たちは何かを語り始めるときに、つねにすでにその文脈を各人が一から構築しなければならない。そしてそこでは、上述のように私自身が全くダンス固有の文脈に通じていないことも結果的に功を奏するかもしれない。かつて、日本において批評というジャンルを立ち上げた祖である小林秀雄は、「批評とは、竟に己の夢を懐疑的に語る事ではないのか」といった。コンテンポラリーダンスという場を軸に、自らの夢を語ってみたい。

 まず、夜(17時)公演のみに出演した山本和馬・青木晃汰・遠藤僚之介・松縄春香の4名による「Rehearsal of Heaven」について述べたい。本作は途中の暗転を軸に二部で構成されていた。
前半は、4人が床に仰向けになっている場面から始まる。タイトルにあるように、おそらくそこは天国のような場所で、目覚めた4人が各々の仕方で徐々に身体を弛緩させながら起き上がろうとする。右手から動き始める人もいれば、左足の痙攣から一種の蘇生が始まる人もいて、天国での4人それぞれの物語が開始される。しかし、彼らの内誰も直立に立つことはできない。それぞれが身体の部位に何かしらの欠落を抱えており、バランスを保つことができないでいるように思えた。
一度暗転を挟み、後半では一転して、4人はそれぞれ全く違う方向を向きながら無表情に直立不動の状態にあるところから始まる。異空間の秩序に慣れ、ようやく身体の自由を手にしたのかと思うには、その無表情が醸し出す不気味さが気になってしまう。そこで天井から4つの青白い糸のようなものが垂れてくる。4人はそれぞれ、ゆっくりとその糸に引き寄せられるように歩き(歩かされ?)、その天からの糸に触れたものから順に地に崩れ落ちていく。
他の作品の大半がソロであったことと比べても、これがカルテットであるという差異が目立つが、しかし、それが逆説的にこの物語が「死へと向かう人間存在の孤独」を表現し得ているように思えた。本作において、4人は何の統一的な動きも共有していないがために、最初の数分間、観客たちはその不調和に居心地が悪くなり、どこに焦点を絞ろうか各々の関心を自己発見せざるを得なくなる。「一人一人のパフォーマンス」と「4人としてのパフォーマンス」という「部分と全体の循環」が本作の基底にはあるのかもしれないが、その二つを均等に観るということはどこかの一点で断念されるだろう。また、この作品への印象は自分がどこの客席から観たのか、という偶然にもかなり左右される。特に最前列で観た私なんかは、4人が激しく動き始めると、全体を追うことが不可能になり、たまたま気になった一人の物語に知らぬ間に没入していくことになっていた。
私自身は、客席からみて一番右(上手)の演者(青木晃汰)がひたすら執拗に、何かを拾い集めようとしている動きに目を奪われた。勝手な解釈だが、私にはその動きが、生前の未練や失ったものを強迫的に収集して心の虚無を埋めようとしている哀れな死人に見えた。しかし、その印象を手掛かりに全体を見てみると、他の3人も各々の物語の中で何かの欠落を取り戻そうとしたり、トラウマを強迫的に反復したりしているように思えた。
暗転を挟んで終盤に入り、天から垂れてくる糸の演出、そして4人が全く視線を交差させることもなく、自分それぞれの閉じた世界の中で死に向かっていく流れは印象的だった。そして、それをみて前半で私が4人全体の物語ではなく、個人の物語に没入したことが正解だったのではないかと感じられた。タイトルにもあるように、この作品は一種の死への予行演習である。私たちは、眼前にある4通りの生と死のドラマ(4つのパラレルワールド、可能世界ともいえよう)の中から、恣意的に一つの現実を選ばざるを得ない。なぜなら、私たちにそれぞれ与えられている命は唯一なのだから。ハイデガーを引き合いにだすまでもなく、「人間は社会的な存在である」という幻想が一瞬にして崩壊し、ただ剥き出しの個として投げ出されるのは「死」の局面においてである。生が他者依存的で偶然に左右されるのに対して、死は絶対的に不可避な事実である。このテーゼは、第四の壁から向こうの傍観者として安心している観客にも向けられる。つまり、私たち観客もまた、この作品を通して死への予行演習に参加していたのだということが見出されるのだ。
ここで、「自明性を問ふ」という本公演のテーマが、決して演者たちの自己言及を無垢な観客たちが受動的に楽しむというような「消費の対象」ではないということが暴露される。「自明性を問ふ」という問いが、「死」という最も張り詰めた形態と出来事を通して観客の内側に触発され、「問う/問われる」の二項対立は一時的に消失するのだ。この作品が、公演の最後に異化効果として挿入されているのは注目すべきだろう。

「Rehearsal of Heaven」が「死」を題材にしていたのに対し、高瀬瑶子の「シンタイカする器官」と京極朋彦の「DUAL」は「生」をテーマにしていた。ここでいう「生」というのは、20世紀に散々なされた機械文明に対置される「生の発現」といった反動的な意味ではない。むしろ正悪併せ持ち、どこに向かっていくのかわからないような得体のしれない「ナマの生」が現出しているように感じた。
しかし、同じテーマを共有していながらも、その接近の仕方と醸し出される雰囲気は全く違った。まず、高瀬の作品について述べたい。
私の恣意的な区分では、この作品は二段階あったように思う。まず中央に点のような小さな域が光で照らされ、そこには天に突き出された足がある。この両足が、植物かアメーバか、それとも魚か、それは判然としないが、原初生物を思わせる身振りでうごめくところからはじまる。特徴的なのは、交差する両足がそれぞれ別の意志を持っているかのように別々の動きをするシーンである。ここでは、「身体を統御する精神」という二元論が通用せず、ただ何ものでもない未分化な物々の「ざわめき」があるのみだった。前半の約10分は、ここから二足歩行の動物が地に足つくまでの生物史の再現が高密度に凝縮されているといえる。その進化の過程にあわせて、スポットライトはその個体と世界(地面)との関係の複雑化=拡張を表すようにその域を広げていく。
二足歩行の生物が誕生したかに思われた瞬間で、演者が手で地面を強く叩き、音楽が止む。ここに一つの節目があるだろう。ここからが、シンタイカの第二段階であるが、それは明確な切断というわけでは必ずしもなく、原初生物からの進化の過程でタイカ(退化)して完全になくなったわけではない、むしろ遺伝子に記憶された「ざわめき」が二足動物の身体に回帰しているようだった。そこからクライマックスにかけて、身体は世界との関係の調和を手にして、自由でかつダイナミックに飛び回る。ここで音楽が再開する。そして最後の場面では、シンタイカの止まることのない動きの中でライトが消える。それによって、この作品が単なる進化の過程の部分撮りであって、決して結末ではないということが暗示される。
重要なのは、演者である高瀬が執拗に自らの顔を観客に見えないように踊っていたという点である。かつて哲学者の和辻哲郎は「面とペルソナ」というエッセイの中で、私たちがある人間を思い出すときには、彼の肩や歩き方、後ろ姿などは覚えていなくても困らないが、顔面を除いては決してその人のことを思い出す事はできないと述べた。この指摘を踏まえると、高瀬は自らの人間存在としての印象を観客に意図的に与えないようにしているということになる。つまり、高瀬は自らの身体が「全体を統御する人格」としてではなく、「諸器官の群れとざわめき」としてあることを志向しているのだ。表情とは人間の身体において最も情報量とメッセージを含んでいるが、逆にそれが自分の伝えたいことを「伝えすぎてしまう」ときもある。特に舞台のソロでは、観客は演者の顔を追って、「この人はどのようなことを考えているんだろう」と必死に汲みとろうとするが、それが時には演者の表現にとって邪魔になることもある、高瀬はこの罠を回避しようとしていたように思った。

最後に、京極朋彦の「DUAL」について述べたい。本作品も二部で構成されていたように思う。まず冒頭、暗転も挟まずに突然始まるため、スポットライトは全体を照らしたままである。そのため「生物個体(演者)と世界(舞台)の関係」が主題化されている。まず舞台に入ってきて、右足を宙に浮かせて左足とクロスさせる中で、やがて身体の左右のバランスが保たれず、崩れ落ちるところから本格的にこの作品は始まる。そこから原初生物が進化していく様子が再現されるが、高瀬と違うのは、四足歩行の動物が地面と対話を重ねながら、放り出されたこの世界において、いかに自らの存在を意識していくのかということに表現のエネルギーが割かれていたように感じた点である。やがて歩き方、走り方を覚えた猿人?(だと私には思われた)が、舞台いっぱいに駆け回る場面は前半のクライマックスであり、印象的である。ヒトが重力に耐え切れず崩れ落ちるところからはじまり、サルが大地との交渉を経て重力から解き放たれたかのように走り、飛び回るところで終わるといういわば解放の物語が前半であるように私は思った。
後半では、ライトは中央に集中し、演者の身体のみが焦点となる。そこでは外部世界は遮断され、身体との自己対話がはじまることが暗示される。前半が地面、重力、跳躍といったように垂直な動きが目立ったのに対し、後半では演者の身体が流れるように横へ横へと拡張されていくように感じた。片足を後ろに伸ばし、片手を前方へと目いっぱいに突き出す伸縮自在の動きは印象的だった。そして、その横への広がりに呼応して、中央にのみしぼられていた光は、やがて徐々に舞台全体を照らすようになる。別言すれば、点的な個体として舞台にさらされた身体が、横への拡張を通して世界との関係を取り戻していくような演出であったといえよう。
身体の可動域への徹底した挑戦という点では、本作後半の演技の右に出る者はいなかったのではないだろうか。粗雑の誹りを省みずに言えば、前者(高瀬)の演技が身体内に作動する諸器官のざわめきを示すというポリフォニックで微分的なパフォーマンスだったのに対し、後者(京極)の演技は身体と世界の交渉が加速・流動して、やがては一体となる「世界が肉となる」極限への志向だった。

   それでは、以上の説明を経て、私なりのコンテンポラリーダンス全体についての雑感を述べたい。包括的なことを述べる為、多少、議論が抽象的になり、かつ細部を捨象した強引さを帯びることを許してもらいたい。
今回の公演が「ダンスの自明性を問ふ」をテーマに掲げていたことは承知の通りであるが、こうした問答と常に向き合わざるを得ないのが「コンテンポラリー」を冠する表現体の宿命だろう。しかし、私は常々、こうした追求と問答が一種の単なる反動として消費されてしまわないかを危惧する。
例えば、今からおよそ一世紀前、フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、かの有名なアルヘンティーナの舞踊を論評する機会に恵まれた。そこで、ヴァレリーは、舞踊というのが実利的な世界とは切り離された無目的性の表現であって、未だ経済合理性ないしは機械文明によって浸食されていない領域としての身体の価値を称揚した。ここで採用されているのは、薄汚れた機械文明に対置される自然の身体の優位であった。つまり、文明という「内部」に対して身体は「外部」として位置づけられている。こうした文法は、はやくは18世紀のロマン主義の時代(「ここじゃないどこかへ」という標語は、まさしく「外部」への希求であるといえる)から手を変え品を変え、文明批判のためにその都度変奏されてきたものである。特に20世紀は、身体が一種の「自由の最終防衛領域」として様々な分野でかりだされた時代だった。しかし、「内部/外部」という安直な二項対立は、すぐさま「内部=システム」によって飼いならされていく。
例えば、アルヘンティーナの「無重力の身体」が称賛されていた一方で、まさに資本主義の化身ともいえるミッキー・マウスもまた、皮肉にも同時代に「無重力的身体」という現代人の理想の体現者として評されていた。また、身体の健全化を目指して、国民スポーツや野外活動を推奨したナチス・ドイツは、身体をシステムの活性化に利用した最大のスキャンダラスな例であろう。20世紀の歴史を振り返れば、内部を抜け出したかに見えた「どこか」もまた、内部にとどまっていた、という悲劇は、枚挙にいとまがない。
少し大げさな話になりすぎたような印象を与えるかもしれないが、改めてこの話をダンスに絡めて換言するならば、重要なことは、ダンスや身体もまた、「積極的自由への希求」という目標実現の道具へと従属させられることがあるということである。言うまでもなく、道具として従属化しているのならば、それは真に自由といえはしない。こうした不条理は、文化行政に少しでも関わるのならば、常につきまとう一種の罠だと言えよう。
だからといって、私たちは身体やダンスに自由を託すことを断念すべきなのだろうか。ここでもう一度、京極の「DUAL」に話を戻す。先ほどは、京極の作品とその演出について述べたが、私は改めて彼のダンスへの姿勢についても一言だけ述べたい。
本公演にて実施された出演者へのインタビューにおいて京極が「客観的にものを見る能力ばかりずっと鍛えてきちゃった気がしてて。」と自ら述べているように、私は京極の作品が構成・演出・振付全てにおいて理論的に組み立てられていることに感動した。上でも述べた前半と後半の意味役割と照明の使い方はその一例に過ぎない。しかし、この部分のみをみて、感性に対する知性の人というような単純な図式を当てはめるのはナンセンスである。自分の感性を信用できず知性に傾斜した場合、多くの表現者は決められたプロットを「しっかりやりきる」ことばかりに集中してしまう。その焦りが観客に伝わってしまったならば、「身体の自由」を鑑賞しに来たはずの人にとっては台無しである。しかし、本公演を観に来た人の中で、この作品に対してそのような印象を持った人はいるだろうか。むしろ、本作品を包んでいたのは、「緊張」と「余裕」の奇妙な結婚であったのではないだろうか。(昼夕両公演を観た人にしか分からないことだが)後半部分に加えられたいくつかの即興アレンジなんかは、その証左といえるはずである。

 強迫的に自由を求める行為は、不自由という反対物に転化してしまう。無理に「外部」に逃避しようとすると、迷いの森に絡み取られてしまう。こうした逆説を回避して、私たちはいかにして自由を名指すことができるのだろうか、「ダンスの自明性を問ふ」という疑問を私はこのように言い換えたい。そして、その問いを探るためには、安易な二項対立に自閉してはならない。山本が「死」を題材に「問う/問われる」の関係性に亀裂を加えたこと、高瀬が何らの静止と秩序も拒否して無人称的な諸器官に表現を託したこと、京極が肉と大地の境界を曖昧にしたことで「やわらかな強さ」を目指したこと、これらはその方途への鍵になるのではないだろうか。そこでは、身体は果たして自由なのかそれとも不自由なのか、という問いが宙吊りになり、自己言及の螺旋が停止する「無―自由」の領域が問題化されている。

山名諒

(神戸大学批評誌『夜航』)神戸大発の批評誌。半年ごとの雑誌刊行と、関西の人文学系のイベントへの参加を行なっている。

コンテンポラリーダンス イズ ソー ディフィカルト トゥ セイ

・はじめに
 まずこの批評文を書くにあたって私が直面した(ている)困難について、正直に打ち明けることから始めようと思う。3月31日に神戸アートヴィレッジセンターで行われた「ダンスの天地vol.00」では、13:30公演、17:00公演で計六組のダンサーのパフォーマンスが上演された。両公演合わせて1日4時間もの間、批評というプレッシャーを双肩に抱えてコンテンポラリーダンスを観た私は、すべてのパフォーマンスが終了したとき、その重みに潰されてしまいそうだった。「なんて困難な仕事を軽々しくも引き受けてしまったのか」と後悔を覚えたほどである。
私は神戸大学の学部生を中心に結成された批評サークル「夜航」の一員であるが、ダンスはもとよりコンテンポラリーダンスからは、かなり疎遠な関係を保ってこれまで生きてきたわけで、私にとってコンテンポラリーダンスは初対面の人間であった。いや、初対面の「外国人」として喩える方がより正確だろう。素性も知らなければ、私が親しんできた言語とはまったく異なる言語を話す他者。実際、彼/彼女の言語を理解するのは決して易しいことではなかったというのが正直な感想だ。明確な物語が提示されず、身体の運動の背後に意味を求めようとする試みはしばしば挫折し、理解しようとしても常に割り切れない余りが生じてしまう。
だが、それは私が抱いた第一印象の一面にすぎない。心を捉えて放さない魅力的な挨拶でコンテンポラリーダンスは私を迎えてくれた。言語交通の障害にもかかわらず、私は彼/彼女と話してみたいと素直に思った。これから私が書くことは、彼/彼女の挨拶への、私からの拙い返事である。

 今回のショーケースでは、ソロダンスが四作(京極朋彦の「DUAL」、山﨑モエの「水のキオク」、大熊聡美の「苺ミルクの妖精になりたい」、高瀬瑤子の「シンタイカする器官」)、複数人でのパフォーマンスが二作(SickeHouseの「亡命入門:夢の国」は三人、山本和馬出演・構成・出演の「Rehearsal of Heaven」は四人)が上演された。その中でも特に京極、山﨑、高瀬のダンスはソロダンスという形式のもとで、人間の身体を異化しようという同一のテーマを共有していたように思われる。はじめに三者のダンスについて見ていこう。

・ 京極朋彦 「Dual」 山﨑モエ 「水のキオク」 高瀬瑤子 「シンタイカする器官」

京極のダンスは20分という時間のなかで、様々な身体表現を見せてくれた。まず床に寝そべった状態で、ゆっくり身体が捩じられ、その反動でまた身体が異なる方向に捩じられるという捻転運動と手足の収縮・拡張の反復によって、まるで一つの植物のメタモルフォーゼのような身体表現が繰り広げられる。その後コントラバスの低音が軽快に響く音楽が鳴り始めると、四つん這いになり、猿もしくは肉食動物のように頭部、肩、腰の連動した四足歩行で舞台上を駆け巡る。それは人間的な身体の要素をまったく感じさせない動物的な動きである。動物的な動きの後は、落ち着いたジャズ風の音楽が流れるなか、両脚で立ちながら柔らかい肩の関節と長い腕(そう見えたのは京極が身に着けていた袖の長い服の効果かもしれない)を駆使し、緩急のついた四肢の運動が滑らかな線を空間に描く。まったく力みの感じられない京極の脱力した身体の動きは変則的で、次の動きが予測できないにもかかわらず、常に一つの流れのもとで切れ目ない運動が展開されていた。
京極のゆったりとした身体の動きは、見る者の視線を引き付ける引力があったし、実際観客の視線を意識した上でそれをコントロールするために設計されているような緻密さを感じた。動かなくなった(かのような)左腕を右手で支えながら、供物のようにそっと地面に置く最後の場面では、時間をかけた行為の遂行と、左腕を見つめる京極自身の視線によって観客の注意がそこに凝集される。
だが京極のダンスで私の注意を引いたのは、観客の視線をコントロールするように巧みに設計された運動だけではなかった。京極のダンスを語る上で、彼の表情、というより完璧な無表情を看過してはならないだろう。猫背で、顔を前方にやや突き出し、ゆっくりとした足取りで舞台に登場した京極の目は虚空を見つめていた。その無表情は、単に感情を表出しないだけでなく、感情がそもそも存在していないことを表しているようである。かといって内省的な面持ちでもない。むしろ内部に空洞を穿たれたような顔である。無表情を表現する能面とでも言うべきだろうか。京極の無表情は、感情や意志や思惟の不在、言い換えれば、人格の不在を表出していた。そしてこの空洞が、人間的身体の徹底的な異化に効果的に作用する。もはや京極の身体内部から流出してくるものは、感情でも意志でもなく、息(プシュケー)だけだ。四足歩行で舞台を駆け回り、何度も跳躍を繰り返す京極の身体から漏れ出る息は、魂というより、生命の充溢の純粋な現れである。
京極同様、人間的身体の異化という方向を向きながら、山﨑は「水のキオク」で、動物的身体というより、水中に浮遊する生物の動きを目指しているようであった。観客席では手元も見えないほどの暗闇の中、舞台上の山﨑の身体だけが陰翳を帯びながらスポットライトに照らされ、深海、もしくは羊水に満たされた子宮のような暗がりの空間が作り上げられていた。そこに観客は超絶技巧が織りなす、無秩序の身体運動を目撃する。 京極のダンスも山﨑のダンスも自らの身体の特徴(大きな背丈、頑丈な骨格と隆々とした筋肉、長い脚といった特権的身体とは対照的である)を活かしたパフォーマンスであり、さらに京極は袖の長い薄手の服、山﨑は身体に比して大きめのシャツを身に着けることで、効果的な身体表現を試みていた。だが京極と山﨑に対して背も高く、長い脚を持つ高瀬の身体は極めて人間的で、四足歩行の動物や水中生物の形態からは程遠い。一見不利に思われる身体の条件の中で、高瀬はむしろその長い脚を用いて非人間的身体を表現しようとした。高瀬は観客席の側に頭を向けて仰向けになり、膝を交点に両脚を交差させた姿勢をとる。そして、その両脚は無脊椎動物の二本の触覚のように、外界を探知しようと自由に動き回る。そもそも人間の脚は身体全体の重みをひき受け、移動の起点となる部位であり、太い骨と筋肉から構成されている。このような可動域が制限された脚を、無脊椎動物の柔軟に動き回る感覚器官として表現することは極めて高度な技術を要するはずだ。さらに脚を無脊椎動物の頭部や口から生える触手の表現に使用することは、頭部による全身の支配という人間的身体秩序の転倒をも意味している。この転倒の意味を理解するためには、外部対象を十全に知覚しようとするとき、それを脚で触れようとするかどうかを自問すれば十分だ。
高瀬のダンスのタイトル「シンタイカする器官」に含まれる「シンタイカ」には複数の意味が込められているだろう。「進化」「退化」そして「身体化」である。このように一つの語(「シンタイカ」)が複数の意味(進化、退化、身体化)を含んでいることは、一つの身体の内に複数の異なる諸器官が共棲していることとパラレルになっている(語の多義性と身体の多数性!)。高瀬のダンスは無脊椎動物から四足歩行の動物、そして直立二足歩行の人間的身体へと移行するのだが、興味深いことに、それぞれの段階をⅠ、Ⅱ、Ⅲとすれば、これらの段階は決して一方向ではなく、例えばⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅱ…のように遡行も含まれているのだ。   
これは進化論的な発生の図式ではない。進化とは退化でもあり、退化とは進化でもあるというメッセージを高瀬のダンスから受け取ることができるだろう。また段階論的に解釈することも許されない。高瀬が人間的身体を用いて、複数の身体の形態を表現すること自体に、一つの人間的身体の中に同時に潜在する、複数の身体の可能性が示されている。京極と山﨑のダンスを観た者ならこのことをより深く理解できるだろう。京極、山﨑、高瀬は一つの器官(京極、山﨑は腕、高瀬は脚)が自立化する場面を表現する。全体に組織化されることに抗う部分対象の自立化は、私たちの身体の内にある諸器官の潜勢力(ポテンツ)を現勢化する。「器官なき身体」 ならぬ「身体なき器官」、もしくは「身体化されない器官」。直立二足歩行でも四足歩行でもない中間状態で、前かがみの態勢を保って動き続けながら照明が消えていく「シンタイカする器官」の最終場面は、シンタイカ(身体化)の完成体は存在せず、私たちの身体はその内部で蠢く諸器官の潜勢力によって絶えず変化している/しうるのだということを示唆しているのではないだろうか。

 ・大熊聡美 「苺ミルクの妖精になりたい」

 大熊のダンスが今回のショーケースの六つの作品の中で特異な位置を占めていたことは確かだろう。確かにソロダンスという形式で京極、山﨑、高瀬と共通しているが、彼らと大熊のパフォーマンスの間を明確に区別するのは、大熊のダンスの持つ物語性でも、音楽や縫いぐるみなどの装置・道具でもなく、ある種の「過剰さ」である。過剰さが目立ったのは次のようなパフォーマンスである。長方形の小さな箱から取り出したグラスに牛乳を溢れるほど注ぎ入れ、両手をいっぱいにして絞った苺の果肉と果汁を牛乳の入ったグラスに滴らせる(苺ミルクを作る)。そして自らの眼球や内臓などをえぐり出すかのような仕草をし、それらを苺ミルクに浸す。続いて苺ミルクに指先を入れ、それを腕に塗り、舞台中央に置かれたウサギの人形に付着させる。そしてこの行為が繰り返される。
 十個くらいの苺を両手で絞り、苺の果肉と果汁が牛乳に滴り落ちる場面や、自身の身体を寸断するパフォーマンスには、「苺ミルクの妖精になりたい」という幻想的なタイトルとは裏腹に暴力性(攻撃性)が現れている。さらに、苺ミルクとウサギの人形の間を何度も行き来し、自らの血肉を捧げるかのような振る舞いは、自傷行為、反復、そして彼女の時折見せる恍惚の表情からも、宗教的儀式を思わせる。舞台には、プリミティブな宗教的儀式の構成要素である性と死の匂いが、苺の甘い匂いと溶けあい漂っていた。このパフォーマンスを単に理想(幻想)の存在になりたいというある少女の願望の表現として解釈し、暴力性や無意識の欲望といった契機を無視することは困難である。その暴力性(攻撃性)は、理想自我への欲望と、それへの同一化の失敗による自罰感情に苛まれる神経症的主体の症候だと解釈できるかもしれない。
 大熊のパフォーマンスの過剰さの一つは反復の過剰さにあるが、その反復される一回ごとの行為自体がそれに比べて過剰ではないということに非対称性がある。苺ミルクが入ったグラスが小さいためか、苺ミルクに指先を少しばかり浸す行為は他の暴力的な行為と比較すれば、あまりに小ぶりで、その分だけ抽象的になっている。過剰に反復される儀式的な行為の内容も同様に過剰にすることを彼女がなぜ避けた(躊躇した)のか。その理由はわからない。

・SickeHouse 「亡命入門:夢の国」

「亡命入門:夢の国」はダンサーと観客双方にメタ視点をとる批評的なパフォーマンスである。彼らのメタ・パフォーマンス(ダンス)という形式はショーケースのキャッチコピーである「ダンスの自明性を問ふ」を意識したものだろう。彼らはダンスの自明性自体を舞台上に可視化することによって、舞台空間上で完結する統一的なパフォーマンスの現前という理念を解体した。つまり舞台の内部と外部、パフォーマンスの内部と外部の間にそびえる見えない壁(いわゆる第四の壁)をアイロニカルな視線でもって壊そうとしたのである。そのメタ・パフォーマンスの全貌をここで論じることはできないので、印象的な場面をいくつか紹介しようと思う。
「亡命入門:夢の国」の開始は、唐突に訪れた。照明が舞台と観客席の両方を照らす中、舞台に立つ下村の「始めます」という声でダンスの開始が告げられたのだが、舞台の上ですでにストレッチをしていた下村がそのままこの合図を出したのだから、正確にはパフォーマンスの「開始」の合図ではなかった。開始の合図以前にパフォーマンスはすでに始まっていたのだ。通常(といっても今回のショーケースが唯一のサンプルなのだが)パフォーマンスの開始前は、観客席を照らす照明は落とされ、舞台上だけが照らされる。そして観客は静かにダンサーの登場を緊張しながら待つのだ。これによってパフォーマンスとパフォーマンスの間に明確な区切りが設けられる。したがって観客席を照らす照明も落とされず、それゆえ会場の静謐も待たないまま、準備のために舞台に登場した(かのような)下村が突然「始めます」と合図したことは、「亡命入門:夢の国」が一つのパフォーマンスとしての全体の輪郭を持たないということを意味する。「始めます」という合図は、まるでこれからリハーサルが始まるかのような印象すら与えたといっても大袈裟ではないだろう。そのような演出により、日常の時間とパフォーマンスという非日常の時間の間にあるはずの区別が消失し、パフォーマーと観客は共通の時空間を分有することになる。
パフォーマンスの開始を告げる合図は逆説的にもパフォーマンスの内部に組み込まれていた。いや、開始と終了によって輪郭を与えられているということがパフォーマンスの必要条件であるならば、「パフォーマンスは始まっていた」というよりむしろ「パフォーマンスはなかった」と言うべきであろう。しかし「パフォーマンスはなかった」というこの命題は、その後舞台上で展開される出来事(events)によって、文字通りの意味を獲得することになる。 例えばパフォーマンス後半に以下のような場面があった。英語でなされるプライベートな内容の質問に答えるという、面接のような設定の即興劇の中で、コンテンポラリーダンスを踊れと言われた下村が「watch me」と言い放ち、舞台前方でソロダンスを踊り始めると同時に、それまで舞台後方で寝そべっていた他の二人が舞台道具を片付けだし、まるでパフォーマンス終了後であるかのような会話(道具をどこに片付けるかについて、これからの予定についてなど)を始める。そして片付けのために一旦舞台袖に消えていった二人が再び舞台上に歩いて戻ってきて、ソロダンスを踊る下村にハグを求め、下村もそれに答える。即興劇の中でソロダンスを踊る下村と、舞台道具を片付けて日常の世界に戻ったような二人がハグをするとき、パフォーマンス内パフォーマンスと、パフォーマンスの外部が一つの舞台空間上で重なりあう。
「watch me」というセリフからも分かるように、ここで下村の踊るソロダンスはダンスの一形態ではなく、自分と自分の作品の関係の間に他者が介入するのを拒む(一般的なイメージとしての)アーティストの自己完結的な独りよがりの態度そのものを表現している。「watch me」という下村のセリフは、前半で演じられた、展覧会のような設定の即興劇で、客が自分の展示作品に触れようとするのを「Don't touch, please」と制止する出展者(芸術家?)の態度とも重なる。その展示作品は、パフォーマーの三人がバケツリレー方式で十個くらいの大小異なる木箱を積み上げて素早く作り上げたものにすぎない(その過程を観客は露骨に見せられる)。にもかかわらず、即興劇が始まるや否や、出展者を演じる人物が、客を演じる他の二人が作品に触れようとすることを頑なに拒否し、強いアイデンティティを作品に感じているのだ。この出展者のように「touch」を拒むはずのソロダンスを踊る下村が、パフォーマンスの外部にいる二人のハグを受け入れたことは、パフォーマーが自分の作品との閉鎖的な自己関係から他者に向かって開かれたことを意味するだろう。 「亡命入門:夢の国」では、舞台上に複数の異なる時間・空間・物語・言語・人種が登場し、そのどれもが舞台空間の現前を専有することなく、互いにズレながらもシンクロする。それゆえ観客の眼差しは舞台空間を自由に徘徊し、あらゆるパフォーマンスの背後で響く「watch me」という、常に隠されている/なければならない命令・了解から解放される(夢から醒める)。夢の国から亡命するのはダンサーだけではなく、観客もまたその亡命者の一員なのである。

*山本和馬作品「Rehearsal of Heaven」については夜航のもう1人のメンバーである中村氏が彼の批評文の中で中心に論じているのでここでは触れなかった。

・おわりに
「コンテンポラリーダンス イズ ソー ディフィカルト トゥ セイ」。これは、SickeHouseの「亡命入門:夢の国」で下村が「what is contemporary dance?」という質問に対し口にしたセリフである。確かに、コンテンポラリーダンスが何であるかを説明することは容易ではない。私のように「ダンスの天地」で初めてコンテンポラリーダンスを実際に観た観客でも、またダンサーや振付家を含めたコンテンポラリーダンスに携わる人でも(その場合にはなおさら)この下村の片言の英語のセリフに共感を覚えるに違いない。むしろ説明することの困難が、コンテンポラリーダンスについての単なるイメージを超えて、その定義の一部でもあると言えるとすれば?
 いや、定義することだけに困難(ディフィカルティ)があるのではない。個々のコンテンポラリーダンスの作品の内容について語ることにも困難があり、その困難は観客に対して容赦も否応もなしに突きつけられる。たとえ、ため息をつかせるほど圧倒するような超絶技巧の身体表現が繰り広げられていようとも。定義すること、そして個々の作品の内容について語ること(セイ)につきまとう二重の困難を下村のセリフに聞き取ることができる。コンテンポラリーダンスの作品について何か述べるときに観客が持ちうる語彙体系(ボキャブラリー)には、(「亡命入門:夢の国」でしばしば観客が耳にした)「good」、「not so good」、「I don't know」という、振付語彙(ボキャブラリー)の過剰に比して貧弱な、しかし同時に非常に的を射ていると思われる数語しか含まれていないのかもしれない。もしこのような、経験にも知見にも裏打ちされてもいない私の臆見がコンテンポラリーダンス業界の現状を説明する一つの仮説としてみなしうるのならば、その検証とともに、この現状から脱出(亡命)する方法が探し求められなければならないだろう。この「困難」な課題に対する解答に導くヒントのようなものをSickeHouseは提示しようとしているように見えた。先に述べたように、「亡命入門:夢の国」はダンサーと観客双方にメタ視点をとる批評的なパフォーマンスである。彼らはダンサーと観客双方のもつ「ダンスの自明性」という欺瞞にアイロニカルな視線を投げかけていた。パフォーマンスに見る者の眼差しが回収されてしまう循環からの脱出という彼らが示した方向には、批評という営為を見出すことができるだろう。振付語彙の過剰から逃れること、ダンサー/ダンス間の閉鎖的な循環に楔を打ち込むためには、コンテンポラリーダンスを批評すること、言語化(言説化)することが一つの方法となりうる。なぜなら、批評とは「Don't touch, please」、「watch me」という命令・了解に違反し、振付語彙と異なる語彙体系をもって、ダンサー/ダンス間の閉鎖的で自己完結的な関係に外部者として介入することだからである。しかし、それは語ることの困難に対峙する義務を放棄することではなく、その困難を受け止めたうえで語ることだ。私のこの「批評文」がそのような要求に応えることができたかはわからない。だが、それが私の内部で決定されないことだけは確かである。

竹田真理

90年代後半に活動を開始し、2000年より関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等を執筆。ダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。

創造性の発露と自由な試行 ―ショーケース公演の可能性

関西発のダンス・ショーケース公演「ダンスの天地」がvol.01として本格的に始動した。プログラムには今日のコンテンポラリーダンスがもつ表現の幅を示すような多様な5作品が揃った。作品の方向性を考えるにあたって、意味内容を表現するものと、言語自体を問うものの二つの指標をひとまず置いてみる。前者の代表的な振付家はタンツテアターを標榜したピナ・バウシュ、後者はバレエの技術を極限まで推し進めたウィリアム・フォーサイスだろう。この指標に沿って今回の5作を見れば、前者の先鋒が原和代、後者は...1[アマリイチ]と理解することも可能だ。だがさらにそこから外れ、それぞれの距離と方向性をもって自身の思考を深めている5作品であったことは興味深い。様々な舞踊言語の参照、外部の表現や思想との接続などが個々の問題意識や美学のもとに追求されており、その背後には膨大なダンス史の蓄積があり、作品はその流れの中での様々な参照の結節点の一瞬の現れであり、動き続ける思考の結晶なのだ。アジア各国から押し寄せる多様なダンスの波や、震災後に高まりを見せる日本の伝統芸能への関心は、ダンスを人間の生活文化に根差した営みと捉える視点をもたらしている。他方、集団性やノリに依存し、身体を巡る繊細な思考が後景に押しやられつつある傾向も一部に見られる。そうした状況で前回および今回の「ダンスの天地」が示したものは、舞台芸術としてのダンスであればこその創造性の発露と、小規模なショーケースならではの自由な試行ではなかったろうか。そして何より様々な地域で個別に活動するダンサー・振付家との出会いがあること。そのような場として「ダンスの天地」は機能し始めている。

...1[アマリイチ] 『うちそと』

ベートーベンのピアノソナタ13番を全曲使用し、音楽の形式を借りて振付を行った作品だ。左右に並んだ二つのスポットライトのそれぞれにダンサーが立ち、ほぼ全編、移動することなくその場で踊り続ける。
本作に先立って5月に発表された『punk・tuate パンクチュエイト』では、物事を「区切る=punctuate」をコンセプトに、空間にピンクの紐を張り巡らせるなどの行為性を含んだパフォーマンスを展開した。劇場ではないイレギュラーな空間に思いつく限りの振付や行為、動作を投入し、何でもありの散らかしぶりの中で、何が空間を限定し定義をもたらすのかを見極めようとしたのである。これに対し今回の『うちそと』では、境界を巡ってのコンセプトを引き継ぎつつも、要素を削ぎ落とし、形式を課すことでダンスの本質に近づこうとする。
アンダンテの明るい曲調が始まると、スポットライトのそれぞれに二人が立っている。益田さちは上体をゆっくりと回したり背面へ仰け反ったりしながら姿勢を不定形に変化させており、斉藤綾子はうつむいたまま、下ろした右手の先をしきりに動かしている。ベートーベンのピアノソナタ13番は、「月光」「悲愴」といったタイトルを持つ他のソナタに比べると、理性的な音の運びを特徴としており、疑いのない形式性が前面に出る。特に第一楽章は清潔なエチュードのような曲想だ。ところがダンスはこの音に対し、リズムやカウントやステップではなく、動作の中間を切り取ったような姿態や、微細なさざめきのような細部の動きで応じている。ダンス以前、あるいはダンス未満というべき不定形の身体、音楽の形式性を裏切る身体の歪なあり方をもって、期待されるオーソドックスな振付の外に立つことを試みているのだ。ユニット名の「...1[アマリイチ ]」には「割り切れない数」の意味がある。形式からはみ出るもの、剰余へのこだわりは、二人にとってユニット結成時からの一貫したテーマであるようだ。
曲想とのずれを含みながら始まった音楽とダンスの関係は、こののち徐々に呼応しはじめ、音楽そのものの発露と化し、やがて音楽を追い越していく。二楽章・アレグロ短調での激しく劇的な動きや、快活なリズムによるユニゾン。三楽章・アダージョでは輪にした両腕と上体のおおらかなうねりが音楽とともに空間を舞う。
踊る位置を固定することはステップを踏まないことを意味し、ダンスという表現形式における最大の制約を意味する。その制約のもとで二人は音を細かく拾い、曲想の煽りを受け止め、音楽に宿る本質を引き出そうとする。それはまた本質を踊り手自身の身体性と深く結びつける作業であり、振付の意図したもののさらに先へと踊りを連れ出すための自由を獲得することでもある。特に印象深いのは体軸から水平に差し出される腕。周囲の空気を切り裂くように鋭く旋回する腕は、しなやかでありながら、ギュンと音を立てそうな獰猛さを備え、身体的な均衡の破れの限界へ迫るかの勢いでドライブする。この腕の動きは斉藤綾子が他の作品でも見せた特徴的なもので、斉藤の中に内在した身体言語をユニットで共有したものだろう。明らかなように、ここでは身体は、形式から外れるのではなく、形式の外から中心へ向かって運動性を増している。加速する身体は振付を追い越し、時間の微分を繰り返しながら、形式と言語の始原の瞬間へと向かうのである。そこに待っているものがダンスの真髄であるのかは誰も見たことがない。もはやダンスと呼ぶ必要のないものかもしれない。
終盤、すべての振付を放棄したような一瞬の空白があり、そこからコーダに向け、初めて定位置から抜け出した二人は、客席手前まで弾けるように踊りながら走ってくる。そしてそのまま左右に分かれてアクティングエリアを走り去り、視界から消える。「境界」の外へと文字通り出ていく、解放された、胸のすくような幕切れだった。

原和代 『呼び合う声、朝と夜』

シアトリカルな構造をもった異色の作品だ。台詞があるわけではないが、暗転のたびにシーンが転換し、タイムラインは攪乱されている。一つのシーンは非常にスタティックで、ムーブメントによる時間的な展開はない。場面の切り替えによって、切り取られた時間軸が継ぎ合わされるが、一場一場は完結した光景であり、ショットの構成で成り立っているという意味では映画的ともいえる。
ドヴォルザークの交響曲『新世界』の勇ましい響きから始まる。音楽に遅れて照明が入ると、舞台の両端に男女が立っている。二人はすぐに中央に歩み寄り、肩越しに「はす向かい」に立つと、同じ動作を、鏡ではなく点対称になるように行う。腕を直線的に使った儀式のような動作。ドヴォルザークの音楽の劇的な響きに、内的な動機をもたない簡素な動きが対置される。これをどのように見ればよいのか、観客は文脈を作ることができずにいる。二人の衣装も奇妙だ。男は赤の、女は青色のウィンドブレーカーのような上下を着ていて、何をする人なのか、どんな関係にあるのか、この場がどのような状況にあるのか見当がつかない。二人は互いに手を取ることも、向き合うこともないが、図形的な対称性を保ち、フィックスした振付を動く。躍動せず、情動に突き動かされることのない冷えた身振りは、時間の喪失を暗示するかにも見える。
女が去り、音が止むと、小さな車輪をつけた"すのこ"状のカートの上に、男(竹ち代毬也)が腹這いになり、スイーッと滑る。「ハ、ハ、ハ、ハー」という男の笑い声のエコーが入り、ギャグとも不条理ともつかない感覚が広がる。エコーの後に一瞬の暗転があり、再び照明が入ると、去ったはずの女(高瀬瑤子)がいて、カートに跨り、足を使ってゆっくりと舞台を一周する。次に男が女の乗ったカートをロープで引き、やはり舞台を一周する。橇を引くようにゆっくり進む男と、引かれていく女。振付家は敢えて虚ろな行為やナンセンスな光景を作り出そうとしているのか。要素は混在しつつ脈絡を欠き、意味や情景、情緒への回収を拒んでいる。だが一方で、カートの二人はあてどのない旅の途上にいるようにも見える。聞こえてくる雨の音が、微かな記憶を呼び覚ます。むしろ、すべての事柄が意味の兆しであるように思えてくる。男は下手前に来ると前屈みの動きで何事かをモノローグし、女は対角線の端から男の背中に向けて、身体を大きく使った身振りを繰り返す。
一貫して、情動を欠いた淡々としたトーンで舞台が運ばれ、何か大きな出来事が世界を終わらせてしまった後の寂寞とした光景が描かれる。衝動、リズム、速度を欠いたダンスは歴史の喪失を意味している。しかしヴィジョンはどこか神話的であり、記憶の欠片や記号に満ちている。単体としての身体と、補完しあう二つの身体の景。二人は人称のない、人類最後の男と女だろうか。世界を構成する二つの要素としての、赤い服と青い服、男と女、朝と夜が、歴史「以後」の世界でなお、呼応し合う。広島、長崎、東北、福島、いくつもの「以後」を生きる私たちの現在を、遠く照らしている。
後半、二人はウィンドブレーカーを揃って脱ぎ白い服に変わると、それまでとは対照的にシルエットを親密に重ねながら、手足を大きく動かして踊った。最後に男が女の手を取り、二人で走り出そうとする瞬間に幕となる。「はじまり」を一瞬仄めかした演出は、原和代から観客への贈り物だろう。竹ち代毬也、高瀬瑤子の経験を積んだ身体が言語化されない現代の神話の語りに貢献したことは疑いがない。力のあるダンサーを起用しながら、そのダンス・スキルに依存せず、別の方向の創造性へと開いた演出の力にも言及しておきたい。

木村愛子『人はどこまで進化を望むのか?』

ダンスの審美的な側面と、意味内容をもった作品性の双方を追求した作品だ。ポストモダンダンスが物語を排除して以降、ダンスは動きそのものの自律と身体の現前をもって自らの表現形式を追求した。その後登場したコンテンポラリーダンスは、非常に大雑把に述べれば、ダンスに再び物語性/歴史性を回復していく過程と見ることができる。ただしそこで語られる物語とは起承転結をもったストーリーではなく、直観によって配置される記憶や神話、イメージやテキストの断片的な構造だ。しばしば言われる若手がフルレングスの作品を創作することのハードルの高さは、このようなナラティブを構築する力に関わっているように思われる。本作はダンスとナラティブの両立の試みであり、今日のダンスの作り方の一つの典型を示している。
上体を折り、手足を床について四つ足で現れるダンサーは、訓練された硬質な身体で人間以外の生き物の動きを見せる。カエルかトカゲ、おそらく両生類か爬虫類。その背後には多数の乳白色の風船が引きずられて出てくる。風船はすべて一本の糸に連なっており、直接的には「カエルの卵」といった印象だ。あるいは「細胞」「子ども」「分身」などを連想した人もいるだろう。いずれにせよ何か生体に関わるものが想像され、それ故に次の瞬間、風船を次々と割っていく行為の暴力性、自虐性には胸を突かれる。床に散らばったゴムの破片を、ダンサーは一片ずつ拾い上げ、一箇所に寄せ集める。残骸を葬る行為であり、手のひらから花びらを散らす弔いの所作にも見える。生命の破壊・抹消と、失われたそれへの哀れみと、相対する局面に引き裂かれて、ダンサーは身をこわばらせる。
タイトルからも分かるように、本作で木村愛子は、とどまることを知らない文明の進展が人類や生物の身体にもたらす変容や、予測不能で得体の知れない未来への危機感を描いている。人類、生物、進化、環境、人工知能などを扱うサイエンス、あるいは産業、戦争、資本主義を巡る政治や社会的な問題など、振付家の批判意識は人類史的、地質学的な時間から現在のアクチュアルな問題までを射程に入れている。ポストヒューマンなど思想の動向も参照可能な主題だろう。壮大なスケールをもった時間の流れを想定するのか、木村はたびたび上体を大きく反らし、遥かなものを仰ぎ見るような動作をとるのが印象的だ。身体のラインを生かしたフォルムが美しい。
事象を異なる角度から描くために木村がとった方法は、暗転を多用し、シーンを細かく切り繋ぐことである。この方法は語り口にテンポを生み、シリアスなテーマを過度に内的になることなく外へ向けて描き出すことにつながっている。風船には軽やかでポップな質感があり、ロックミュージックの曲調が喜劇の開始を告げる。何かを探し、さまよい、行き止まり、押し戻されるマイム、風船の残骸が残る糸を不思議そうに眺めては自らに巻き付ける、といった主題に関わるシーンと、ストロボの明滅に晒される身体、硬直と弛緩を繰り返す身体、床の上で引き攣る身体といった身体の質感や現前に関わるシーンとが、暗転のたびに入れ替わり現れる。この方法には功罪があり、時間の持続の中で身体が強度を得て訴求する力を削いでしまう面がある。それでも全体からは、あるクライシスの感覚が確かに伝わってくる。後半には冒頭の風船の破裂音が音響として再現されるが、音は銃弾を連想させ、ダンサーは弾けるように痙攣する。ここまでの基調が軽快であっただけに、このシーンの悲劇性は胸に迫る。痙攣から徐々に前後に身を翻し、やがて両手を水平に広げての回転へと誘導されるシークエンスは内的な高まりを発露させたひとつのクライマックスだった。再びの暗転で素に戻った身体は自身の変容に気付く。もはや自らの意思を超えて進化してゆく身体。我が手を見、遠くを仰ぎ見、身をよじりながら痙攣していくラストシーンまで、主題を描き切った。

野口友紀『individual』

シアトリカルな作品、テーマを追った作品とプログラムが続いた後の、ダンスそれ自体の展開を見せた作品だ。語る内容を持たないという意味では...1[アマリイチ]に並ぶが、...1[アマリイチ]がダンス・クラシックとモダン・ダンスを基盤とするのに対し、野口友紀は西洋由来とは異なる身体を備えていて、こちらも好対照である。これまでストリートダンスを踊ってきた野口だが、今作の振付にストリートの語彙の直接の引用はない。むしろ独自の身体言語を獲得していて、そのリアリティある踊りに目を見張らされる。端々にブレイキンやロックダンスの要素が垣間見えはするものの、それらは分節されて野口の文法に組み入れられ、振付を構成する最小の要素にまで還元されている。それでも確かに感じられたのは、生き抜く術としてのストリートダンスの精神といえばいいだろうか。地面を捉える素足、重心を低めに構える姿勢は、西洋中心の舞踊史に対するもう一つのダンス史の存在を示すものだろう。
踊り以外の要素はごくシンプルで、衣装は膝上丈のアースカラーのさっくりとしたワンピース。そして何より心憎いのは選曲。ヴォーカルの入った少し憂いのあるダンスミュージック。どこか諦念を含んだミドル・テンポの曲に付かず離れず併存しながら、野口は素足で床を捉え、身体をやわらかく捻り、動きの経路を探っていく。肩をずらし、胸を反らし、腕を差し出し、肘先を脱力し、くるりと一回転し、ストンと床にしゃがみ、といった日常的な可動域の範囲で構成された動きは、そのつど偶然に選択されているようでもあり、一つの動きの必然に従って次の動きが選択されるようでもある。一つ一つ独立したクリアな動作はフレーズを作らず、明瞭なアーティキュレーションによって連続してゆく。そうした技術から生まれる踊りは、自身の身体に密着した語彙ならではの説得力を持つと同時に、泰然として粘り強い質感をもち、ある種の不遜さ、ふてぶてしさの表象となっている。
中間部の暗転が長く続く箇所には不思議な演出が施されている。暗闇の舞台から物音がしていて、どうやらダンサーが踊り続けているらしいのだ。床を打つ音、擦る音の気配から、観客は見えないダンスを想像する。音が露わにするのは踊る身体に備わる意外なほどの物質感だ。舞台上のイリュージョンを掻き消し、ダンスという現象を物質化してしまう。これは動く身体のもう一つの現実だ。ダンスとは動く身体と重力と摩擦の関係に他ならない。この事実は踊り手の存在の根源に降りていく感覚に通じている。闇の中で、一人踊り続けるダンサーのそれ以上分割不可能な個=individualが、自らの踊る理由を探し求めている。暗転の合間に薄っすらと灯りが射すと、月光の下を歩くダンサーの姿が一瞬現れる。夜の底を一人歩く個=individualの存在と、動きと身体の物質性が、ダンスという表層の奥にあるものを照らし出す。
再び入った照明のもとにあらためて見る踊りは、横跳びから床への崩れに身を投じるなど、動きの一つ一つが質量をもち、挑発する力に満ちている。身体を動かす喜びを謳歌しながらも、優美さや従順さではなく、私はあなたの思い通りにはならないという不遜さをまとったアンファン・テリブルの身振りである。野口の踊りの説得力はここにはない理想を追うのではなく、今ある現実を踊ることにあり、諦念と表裏にある抵抗の精神を備えた路上のダンスに通じている。身体を屈めながらの低速・不定形の動きや、身体の部位との内的な対話など、舞踏の影響かと思われる箇所も散見された。岡山で三浦宏之の薫陶を受けている野口であれば、その可能性は十分にあるだろう。ストリートダンスと舞踏の交配が新しい世代の踊りを生み出しているのだとしたら、私たちは刷新された舞踊史の現在を見ていることになる。

遠藤僚之介『pure(  )』

映像と照明が大きな比重を占めた、マルチメディア・パフォーマンスの系譜に位置づけられる作品である。映像、照明、舞台空間、身体、音楽、ダンスの諸要素が舞台に一つの環境を作り出し、その中心に作者自身の身体が置かれている。
3人のダンサーのうち二人(いはらみく、山本和馬)は全身に黒い衣装をまとい、顔面もドーランで真っ黒に塗っている。ダンスミュージックとともに踊るのはこの二人のみで、演出・振付の遠藤僚之介は舞台中央に客席に背を向けて立っている。アップテンポの曲調に合わせて、黒塗りの二人がナイトクラブのダンスのように少し頽廃的な雰囲気を交え、遠藤の周囲を回りながら踊る。客席の背後から舞台奥のホリゾント幕に向けてライトが照射されており、ダンサーたちのシルエットを映し出す。遠藤は背中にこのライトを受けながら立ちつくす。おそらく遠藤と黒い二人は異なる空間に属した存在である。舞台に現れる光景はすべて遠藤の視点が捉える世界のイメージであり、踊る二人は世界の中の名もなき群衆、他者、影、あるいは死者たちだろうか。
ホリゾントには時折、小さな矩形の画面が現れ、海の映像が投影される。深々とした海の画像は世界の根源や混沌を暗示し、情報化と資本主義の窮まった現代と対極をなす。これも遠藤の意識の中にある世界のイメージの投影だろう。黒い影、照明の明暗、モノクロの映像で展開してきた作品に初めて色が現れるのは、青、緑、赤の光がホリゾント全面を照らす時だ。色彩の三原色は世界の構成原理を示唆するのだろう。この場面を境に何かが臨界を迎えたように、遠藤自身の身体パフォーマンスが開始する。背後のホリゾントには世界の都市を捉えた高速の映像が投射される。巨大な情報量と資本主義の野蛮に翻弄されるかのように、遠藤は舞台を動き回る。ランダムな動きに見えるが、ステップによる細かい移動と頻繁な向きの転換があり、上体の捩じれや腕の遠心力を用いたアメーバ状の伸縮を速度の中で操作する。ようやく訪れた遠藤のダンスのシーンは上演時間をわずか5分残した時点から始まった。もう少し見ていたかったが、コンセプトを設計どおり描き出すための構成というわけだろう。大きな構造と巨大なエネルギー、時間の流れ、その中に晒され佇む身体の対比の構図である。
一点疑問を述べれば、顔面の黒塗りは意図した以上に過激な意味をもってしまってはいないか。マルセロ・エヴェリンが戦争やテロリズムなど現代の社会が生む犠牲者の表象を裸体の黒塗りに込めたことを想起するが、それだけ強い表現をもつこの方法に、遠藤が込めた真意は何だったのだろう。

岡元ひかる

 作品に個別な内容を綴るに先立って、筆者が本レビューを執筆する際に心がけた点を述べたい。
一つ目は、記録映像では確認できない、場の状況を言葉で記録することである。舞台上で行われた物事のみならず、劇場空間の中で起こった状況、さらにその状況が与える観客の経験を含めて一つのダンス作品であると考えている。二つ目が、ダンサーの身体性になるべく具体的な言葉を充てることだ。ダンサーの身体を目前にしてしか見えてこない踊りの特質がある。そして三つ目が、筆者の知見と解釈によって能う範囲においてではあるが、現在のコンテンポラリーダンスシーンにおける各作家や作品の位置づけを行うことである。

  ①「うちそと」
 「…1[アマリイチ]」を結成した斉藤綾子と益田さちには、世代、性別、細身の身体、そしてこれまでずっと関西を活動の拠点としてきた背景に至るまで、多くの共通点がある。さらに二人は、関西を代表する振付家・きたまりの『悲劇的』の共演者でもあり、ダンサーとしての経験にも重なる部分がある。この、あらゆる意味で似通う点をもつ二人が構成するというユニットの特色に着目すれば、彼女たちが境界という概念に関心を寄せることにも必然性が感じられよう。周知のとおり、コンテンポラリーダンスシーンではあらゆる意味において異種の出会いが生み出されてきた。対して、「…1[アマリイチ]」による活動の眼目は「ひとつ」の何かを腑分けすることである。彼女たちは領域や素材、地域などに関するダイナミックな越境がダンスに新味性を与える例をいくつも知っているに違いないが、その上であえて「同質」を出発点とした創作に取り組んでいる。それは、よりミクロなレベルを前提に置いたダンスの境界を探る、身体的なリサーチとも言えよう。本作『うちそと』では、そのリサーチ過程の一端を見ることができた。
 冒頭、目を閉じた二人は、手や顎だけで極めて微細な動きを見せた。関節・腱・筋肉など、身体内部の感覚に集中しているか、はたまた身体の外部空間に架空の状況を想像しながら動いているようでもある。そしてその先、踊りながら彼女たちが意識を向けるのは、身体の内側に近い対象から、より外側のそれへと移行した。暗闇に浮かぶ二つのスポットライトの中に立つ斉藤と益田は、ラストまでその外に出ない。そのため、殆ど上体に限定された動きが続いたにも関わらず、動きのダイナミクスが増大するプロセスが、豊かな振付ボキャブラリーによって細やかに進められてゆく。ラストシーンの段階になると、彼女たちの意識は客席にまで届き、踊りが支配する空間が会場全体へと拡張されていた。そこから一旦、助走のように二人は動きのボリュームを下げ、ついに漸くスポットライトから脱出する。ポジティブかつハチャメチャに踊って最後、舞台にぽつんと残った「ひとつ」のスポットライトが彼女たちのテーマを象徴した。ダンスの空間が拡がってゆく段階が、作品を構成していた。
 ところで本作で用いられた音楽は、ベートーヴェンのピアノソナタ第13番である。序盤においては個々別々の振付を踊った二人は、フレーズの切れ目で時々ストップモーションを挿入した。流れるように続く踊りに対して、このような瞬間にはダラダラした印象を防ぐ引き締めの効果があっただろう。
 時間が経てば経つほど二人の熱量は加速度的に高まり、後半からは駆け抜けるようなユニゾンに突入した。ユニゾンとは、同じ振付を複数人が一緒に踊ることを指すが、ここでは身体的素地も似通った二人の動きに、きわめて微妙な質の違いが見えてくる。父・サイトウマコトのメソッドをマスターする斉藤は、いつも淀み無くまろやかに空を切る腕が印象的だ。益田からは、それよりも少しキレのある動きの印象を受ける。同じ「ひとつ」の振付であるかないか、その違いを隔てる境界はどこにあるのだろう。上演では、同じ振付の内と外を隔てる境界が、見え隠れした。
 ロングヘアの斉藤とベリーショートの益田。白い衣装には、スカート丈の長さを変えるなどの工夫でデザインの差がつけてある。清潔感のある現代の若い女性という日常的なイメージから、非日常に少し逸れた雰囲気を醸すビジュアルであると言える。無難といえば無難、しかし裏を返せば、幅広い種類の鑑賞者を想定できる二人組と言えるだろう。コンテンポラリーダンスという括りや小劇場にこだわらず、様々なシーンを活動の場として選べる可能性をもったユニットである。

  ②「呼び合う声、朝と夜。」
 プログラムに記された演出ノートによれば、『呼び合う声、朝と夜。』には、振付家・原和代の恋愛観が影響したそうだ。男女のデュオが展開される本作は、半ば演劇的でもある。ただし原の中で構築された物語を観客が予め知るわけではなく、またタンツテアターなどとも作風が異なる。言うなれば、それは原が考案した独自の男女関係や物語設定を、ひとつひとつのシーンに象徴させたような作品だ。
 冒頭で用いられたドヴォルザークの『新世界より』第4楽章は、それだけで既にドラマティックな世界観を立ち上げることができる。そんな効果に拮抗する身体の強度、あるいはその効果を逆手に取る戦略などがなければ、音楽と身体の共存が成立しにくい。こうした難しさを一方では感じさせつつも、他方では、あの有名なメロディーが「新世界」という言葉を記号的に思い起こさせる側面は、原の壮大な世界観(「朝、男がおーいと叫ぶと、夜、地球の裏側で女がおーいと受け取る」(プログラムノートより)など)を共有するのに効果的であったように思う。
 本作では作家の頭の中にしかないプロットを、そのまま伝えることは意図されていなかっただろう。むしろそれを抽象化しておくことで、観客が想像力を使って設定の詳細を補うことが想定されていたように感じた。ただその試みもまた、ダンサーの身体から何らかの意味を読み取る観客の姿勢を要請するという点では、前者とほぼ同じ次元にある。中盤のシーンでは、高瀬が台車の上に座り、それを三輪車のように操縦した。そして舞台上に何周も円を描きながら移動するという抽象的描写が、しばらくゆっくりと続く。のどかな田園地帯で聞こえてきそうな自然の効果音などが何らかの想像を促すトリガーになるが、そうした想像にもこちらの努力が必要になってくる。実はこのシーンで最も印象深かったのは、もっと瑣末な要素だ。台車からはみ出し、チョコチョコ床を蹴る高瀬の足が、床に吸い付き、高い甲がニョキッと出て、また床に吸い付く。舞台で行われることを解釈することよりもむしろ、代わりにこうした身体の面白さに関心を奪われた。
 ダンサーの高瀬瑤子と竹ち代毬也を組み合わせたキャスティングは、男女の関係性についての多様な解釈を促した。まず二人には、身体的素地に大きな違いがある。長い肢体と関節の広い可動域を生かし、ひとつひとつの振付をのびやかに踊る高瀬と比べて、竹ち代のそれはかなり制限されている。作中に登場した振付は、どちらかといえば西洋的身体を持つ高瀬にとって踊りやすいものだろう。そのため二人が同じ振付を踊るシーンが多かった本作では、否応なく女性である高瀬が男の竹ち代よりも「できる」という構図が出来上がった。
 また、年齢の隔たりが特長的だと感じたのは、筆者だけだっただろうか。スマートな線を描く振付が多いせいか、二人の関係性は叙情的ではなく、むしろドライに見える。それだけに、年上の竹ち代と若い高瀬に想像される関係性は、恋愛に限定されずに開かれた解釈を許した。

③「人はどこまで進化を望むのか?」
 例えばワンフレーズの振付を踊るだけで憑依の相貌を呈するダンサーに、たまに出会うことがある。それが本人の随意によるものか否かについては一概に語れないが、木村愛子は少なくとも、自分の状態を通常から何かに憑かれたような状態へ変容させることができる、振付家/ダンサーであると言えよう。
 冒頭、カエルの卵のように連なる白い風船をいくつも引きずり、四つん這いで登場した木村は、どこか気味の悪い生物だ。ところが次に二足歩行で正面へ歩を進めるうちに、巫女のような少女に変わってゆく。そしてその神聖な姿にこちらが慣れ始めた頃、観客の不意を突き、狂ったように風船に次々と針を刺してゆく。バンバンと鳴り響いた破裂音にまだドキドキさせられつつ、木村の目から正気の色が消え、少女からヤバい女のモードに切り変わった様子を認めると、まるで予告無しに秘密を暴露されたような気分に包まれた。
 その後、作中に暗転がこまめに挿入されることで断片的なシーンが順に現れていく。その間も木村の危なっかしいモードは続いた。例えば定点で上体の動きを繰り返す時も、目使いがどこか不穏な存在感をキープする。また別のシーンでは、おちょこを持つかのような手を観客に差し向け、危なっかしくもつれた足取りで歩く。そしてついに架空の容器の中身を木村自ら飲み干してしまうと、途端に退廃的なムードが一気に高まった。
 踊りの中には、そんな狂気と退廃の佇まいをベースとしながら、観客を反射的な感覚に誘う動きが目立つ。例えば複数のシーンに用いられたのは、手の甲が発作的に額へ引きつけられるような動きである。また別のシーンでは、舞台に上手から光を射す照明器具に近づき、その度に突如として頭が光に弾かれるようにのけ反る。そして終盤の踊りでは、頼りなく空をさまよう腕が、これもまた急に、痙攣のごとく方向を変える。感情移入ではないが、こうした瞬間を目にして、針で身体の局所を突かれた時にビクッとしてしまう、そんな反射的な身体感覚への移入が起きるのである。
 自分の動きが「コントロールの枠を超え出る」ようにコントロールすることは、きわめて難しい。本作では、生命科学技術の発展に伴う、身体のあり方・身体に対する考え方の変化が扱われているが、木村はその難しさをクリアすることで、このテーマを身体的レベルに落とし込んだように思われる。
 終盤の踊りも特筆したい。はじめは片足を上げたアンバランスな態勢で微動だにしない木村の身体フォルムが、こちらの脳裏に焼きついた。この彫像のような数秒間があった後、空中の脚だけがゆっくりと動くと、その脚だけに視線が吸い込まれる。そしてついに床に接触する瞬間には、観客の注意が木村のつま先一点に奪われるのを感じた。観客がダンサーの身体のどこに注目するか、という点までもが計画されたようなシーンだ。さらに振付は続く。彼女が肘を曲げて上方に伸ばすと、筆者と同様、他の観客の視線もまたその肘に引きつけられたことが、肌身で感じられた。
 今回の公演の中で、本作は最も印象深かった。ダンサーが自分の身体を用いて確信犯的に行う踊りの工夫は、何でもある種の「テクニック」に発展する可能性があるのではないか。そう感じさせた作品だ。

④「indivisual」
 純粋な踊りで20分間を勝負した、という印象を与えた作品である。静かにゆっくりと歩むシーン、そして暗転の中で野口が動いている音だけが会場内に響く時間などがあったが、残りの要素はいわゆる王道の踊りで構成された。
 さて、彼女の振付ボキャブラリーを最も支えていたのは、腕の動きであっただろう。神経が遮断されたようにダランとした手はいつも無表情であるのに、肩から手首にかけての表情はかなり多彩に変化する。例えば、ストリートダンス由来すると思われる筋肉の弾き、弛緩、関節を操って生み出されるウェーブなど、見ていて飽きない。その反面、四肢以外の身体部位がブロックのような塊状態であるために、常に小さくまとまった動きばかりが展開されたという印象もある。コンテンポラリーダンスを観ている時は、作品構成にも演出にも振付にも、観客の期待を良い意味で裏切るような意外性を期待したくなる。そのため、もし手足の先端や胴などの開拓がさらに行われるならば、さらに空間的な伸縮性に富んだ身体、そしてさらに意外性のある動きが可能になるのではないかと感じさせた。
 ところで野口のダンスでは、動きのスピード感や、動きのタメや止めによって独自のリズムが生み出されていた。前半では、同一メロディーが繰り返される音楽が延々とバックに流れていたが、彼女のリズムはそれに負けて隠されることもなく、自律して音を奏でていたのには目を見張った。もし無音で踊っていたとしても、身体の有機的なリズムがシーンを成立させたはずである。
 作品全体の構成もバランスが取れていると感じる。奥から手前に伸びる照明の中を歩く姿は物寂しさを背負い、薄暗い照明の中で電子音と共に踊ったシーンでは、孤独さを想起させた。ただやはり、先にも触れた意外性がどこかに欲しい。バレエ出身者の人口には及ばないかもしれないが、ストリートダンスからダンスの訓練を始めてコンテンポラリーダンスに転向したダンサーは、非常に多いからこそ、踊りに対する真摯な姿勢以上の何かを求めたくなるのである。振付の構成や身体で音を奏でるセンスなど、恐らく訓練によって身につき難い能力が光るダンサーであるがゆえに、期待がさらに高まった。

⑤「pure( )」
 『pure( )』の主役メディアは、身体と映像である。
 白いシャツを着て舞台の真ん中に立つ振付家・遠藤僚之介は、観客に背を向け、直立姿勢を崩さない。その周りでは、黒いスーツ、さらに顔まで真っ黒にした黒塗りのダンサー二人(山本和馬、いはらみく)がゆるゆると踊っている。街のクラブで見るような振付だが興奮は無く、どちらかと言えば少しアンニュイな様子である。劇場空間に、けだるい俗世の空気を持ち込んだ。
 他方で舞台背景としてのスクリーンには、川か海の水が映し出されている。肌理が人口的に整えられたようなその水面は、どの部分に注目しても同じ質の揺らめきしか見せない。そのため、スクリーンに四角く切り取られたその映像は、確かに動いているにも関わらず極めて静的な印象を与えた。そして同様に、まるで舞台空間の柱になったかのようにピクリとも動かない遠藤の身体もまた、物質的で静的だ。
 とりわけ前半、本作に登場した身体は物的な素材に近い存在であったと言えよう。白いシャツの遠藤の身体にも、真っ黒なダンサーの身体にも、しばしば映像が投影されて、それらはスクリーンの延長となった。映像の明るさによっては、黒いダンサーの姿が暗闇に消えて見える。また舞台空間が赤く照らされると遠藤も赤く、青くなると遠藤も青くなる。身体よりむしろ映像の方が、作品の演出をリードしていたと言えよう。
 とはいっても、水面の映像が現れて遠藤の身体が真っ直ぐ向き合う瞬間にだけ、両者の対等な関係性が垣間見えた。柱のようであった遠藤の後ろ姿は水を見つめる人としての相貌を取り戻し、かつ周囲で醸された俗世の空気から隔離された空間がそこに一時的に立ち上がる。
 後半においては身体の存在感が増した。遠藤が最後にみせた踊りは実際のところ非常にスピーディーでも、またエネルギッシュなわけでもない。しかし背景の映像が猛スピードで切り替わることで、身体が細かく、かなり激しく動いているかのような視覚的イリュージョンを生んだ。日常的な街の風景(に見える)の断片がノイズのように超高速で切り替わってゆく、モノクロームの映像だ。それを観ていると、急行電車が目の前を猛スピードで通過する時の、あの一瞬の驚きとその後の小さな疲労を、休みなく同時に与えられているような感覚を覚える。電車がレールの上を走る「ガタンゴトン」のような刻みの音もまた、その効果を助長した。  近年、美術館におけるダンス上演が欧米で増えたことから、その是非をめぐる議論が活発になっている。例えば上演時間が制限されたり、劇場であれば発揮できる演出効果を実現できなかったり、観客の立ち位置や入場のタイミングに彼らと作品との出会い方が左右されたり、といった美学的問題がある。しかし仮に本作が美術館に持ち込まれたとしても、それが作品の命とりになるとは思い難い。むしろ、本作が映像を駆使したいわゆるインスタレーション・パフォーマンスの形になったとしたら、それもまた面白いことになるのでは、と想像させられた。遠藤のようにビジュアルアートの領域から、その後パフォーマンスへと表現の幅を広げて自作品を発表するアーティストは、関西に少ない印象がある。ぜひ同じ作品を、また別の空間でも見たくなった。

吉村雄太

純粋身体を巡る冒険―身体の内なる文法の探求へ

「ダンスの天地vol.01」は2018年9月2日(日)に行われた。「ダンスの天地」は「ダンスの自明性を問う」をテーマに掲げて2018年から始まったコンテンポラリーダンスのショーケースである。
筆者自身は神戸大学発の批評雑誌『夜航』のメンバーであり、縁があって今回批評させて頂くことになった。とはいえコンテンポラリーダンスはおろか、バレエやジャズダンス等、ダンス全般を習ったことも学んだこともない。鑑賞経験も決して多いとはいえず、ダンスに関してはいわゆる素人である。そのような人間がプロのダンス批評家である竹田真理さんや、ご自身も実践家でいらっしゃる岡元ひかるさんと肩を並べて批評させていただくのは大変恐縮である。
率直に言うと、ダンスについての型や文法を知らない私が何かを語ることができるのだろうか、という不安を始めのうちは持っていた。しかしながら本公演の鑑賞を終えて、そうした不安は杞憂だったのかもしれない、と感じるようになった。それは「ダンスの天地」を鑑賞して、あえて大袈裟な言葉を使えば私なりの「ダンス観」のようなものをわずかばかり発見できたからかもしれない。そうした意味で「ダンスの天地」は私にとって驚きと発見と興奮に満ちたひと時だった。
このことは最後に論じるとして、まずは「ダンスの天地vol.01」を鑑賞して感じたことを素人目線ではあるが、一つ一つの演目を振り返りながら、論じさせて頂きたい。

 まず初めの『うちそと』は...1[アマリイチ]による演目である。演目が始まると、舞台中央上手に益田が、下手に斉藤がスポットライトを浴びて立っている。観客は闇の中でスポットライトにくり抜かれた益田と斉藤を見ることになる。クラシックピアノの曲が流れる中、二人はスポットライトの「うち」でそれぞれのダンスを踊っている。二人は別々にダンスをしているのだが、時折そのダンスが互いにシンクロしたりシンメトリーになる瞬間があり、それが心地よく感じられる。 音楽の変化に伴って、舞台上が徐々に明転していく。益田、斉藤ともにスポットライトの外に出ることはないのだが、舞台上の地明かりがつくことで、それまでスポットライトによって区切られていた益田と斉藤の空間が溶け合い、二人のダンスそのものもシンクロ率を増していく。しかしあくまでも二人は個々にダンスをしているだけである。フィナーレに近づくにつれ、客電が灯され、今度は舞台上と観客席との間の空間が曖昧になってくる。そして益田と斉藤は遂にスポットライトの「そと」に出て、舞台後方へとゆっくりと下がっていく。そのまままるで今まで溜めていた力を放出するように、全速力で舞台前方観客席ギリギリまで走って来る。その後暗転があり、暗転の中で中央にスポットライトが落とされて完全暗転される。
『うちそと』は照明を使いながらダンスの自明性を問うた作品だと言えるだろう。
うち/そとを区切るためには仕切りがいる。まずはスポットライトによって益田/斉藤といううち/そとが区切られ、観客はその区切りに焦点化される。その後、舞台上の地明かりが益田/斉藤といううち/そとの自明性を解体していく。その二者間のうち/そとが解体されると、今度は舞台と観客席といううち/そとに焦点化されていく。そしてその区切りも客電によって融解されていく。
最後に暗転下で舞台中央に灯されるスポットライトは、観客を舞台上へと誘う。なぜなら益田/斉藤はすでに舞台上には見えず、もうその演舞を終えているからだ。かつ舞台中央という場所は、益田/斉藤が一度も使っていない空間である。演舞の際に使用されなかった空間をわざわざスポットライトで照らす必要は本来ない。しかしその空間が照らされることによって、まるで益田/斉藤以外の三人目の人物がこれからそこで踊りだすような印象を観客は持つ。そしてその三人目とは誰かと考えたとき、観客は自分自身がその三人目なのかもしれない、という可能性に思い当たる。なぜなら、すでに舞台と観客席といううち/そとは本ダンスにおいてはすでに解体されているからだ。もちろん、実際に観客が舞台上に上がって『うちそと』の続きのダンスをする、などいうことはないのだが、益田/斉藤はまるで観客に一緒にこの続きのダンスをしようと呼びかけているようである。そして二人のダンスは、観客がその呼びかけに応えたいと思わせられるくらいの熱量をもったものであった。
アマリイチは観客席と舞台という自明性を問い、観客をダンスへと誘ってくれるような、「ダンスの天地」の始まりとして素晴らしい演目だったと言えるだろう。

2作目は原和代振付による『呼び合う声、朝と夜』。地球の裏側にいる男と女の恋愛を描いた作品だ。開幕とともにドヴォルザークの『新世界より』が轟音で流れる。朝を演じる竹ち代毬也は赤いパーカーを着ており、夜を演じる高瀬瑤子は青いパーカーを着ている。二人は舞台中央で互いに腕を伸ばし合い触れあうような動作をするも、決して触れあうことはない。朝は決して夜に触れられない。このダンスの見どころは、互いを呼びながらも決して触れ合わないという点にある。そのように互いを呼び合うようなダンスが披露された後、夜は舞台上から去っていく。
一人残された男(朝)は、舞台上に置かれた台車に乗って遊ぶような動作をする。するとスピーカーから大音量で男の笑い声が流れる。これは男の不貞行為のメタファーなのだろう。女(夜)が現れると、男は悔い改めたように正座し夜に向き合う。女はそのまま男が遊んでいた台車に乗って一人台車を漕ぐ。何周かした後、和解の印として女は男に台車の手綱を渡す。男は女が乗った台車をゆっくりと漕ぎながら舞台上を周回する。その周回の折、風雨の音や動物の鳴き声、虫の羽音、街の喧騒が流れる。
台車を周回する行為は幾度も朝と夜を繰り返しながら男女が生きてきた、人類史の遥かな旅のように思われる。舞台上にいる男と女も決してある特定の男女なのではなく、男女の想念というべきものに違いない。
男が台車を手放し、女が台車から降りてしばらくすると、女はおもむろに男に近づいて女は男の着ているパーカーのジッパーを後ろからそっと降ろしてやる。作中で初めて、男と女が触れ合うシーンである。男(朝)と女(夜)は互いにゆっくりパーカー脱ぎ、長い年月を経て雪解けしたように、二人で喜びを表しながら舞台上を踊る。そして最後には男が女の手を取って、まるでランデブーする若者のように去っていく。
 『呼び合う声、朝と夜』は地球の裏側にいる男女と、地球の裏側の朝と夜という関係をうまく使いながら、ただの二人の男女のラブロマンスの留まることなく、幾度も反復されてきた人間の営みの歴史を描いた壮大なスケールの作品であった。地球の反対側で、決して触れ合うことのできない男と女、つまり朝と夜が最後にパーカーを脱がしてやるという形で触れ合う瞬間は、朝と夜が合一する瞬間だと捉えることができ、夜が明けて新たな一日が始まっていく恍惚感があった。

3つ目のダンスは木村愛子による『人はどこまで進化を望むのか?』。開幕と同時に観客は度肝を抜かれる。というのも、獣のように横跳びをしながら舞台に現れる木村についてくる形で、ぞろぞろと白い風船が現れてくるからだ。木村と風船はテグスで繋がれているのだが、その数は七十個にもわたる。照明を浴びて白く濁った風船はまるで何かの生物の卵のようだ。木村はしばらく立ち止まって、急にその七十個にわたる風船を一つ一つ割っていく。その姿は暴力的でもあるが、無邪気な子供が遊んでいるようにも見える。
割れた風船は舞台上の下手手前から上手奥まで舞台を突っ切るように斜めに残り、魚か何か生物の背骨のように見える。木村はその背骨からいくつか風船の残骸を拾うと、それを花びらのように折って、舞台上手に置いていく。いくつか花びらを作って置くと、暗転される。
そこから暗転明転を繰り返しながらいくつものシーンが挿入されていく。その度に木村の立ち位置が変わり、別の時代、別の場所にタイムトラベルしているようである。
途中で風船の残骸を持ち上げ口元に持っていく動作がある。それはまるで肉を食べる動作のように見える。風船はここでは動物の肉や骨のメタファーだろう。人間が進化するに従って肉を食べるようになったことを示唆しているのかもしれない。また化学薬品を飲むような動作も挿入される。これはあるいは科学の発展と、その副作用を描いているのだろうか。その後銃声のような音が響き渡り、その中で木村は何度も倒れそうになりながらも倒れることなく立ち続ける。音が鳴りやみ暗転が終わると、木村はまた風船の残骸持っている。そしてその残骸を黙って悲しそうにバラバラと手のひらから零れ落とす。その姿はまるで遺灰を地面に撒いているようである。
風船の残骸を地面へとばらまいた後、左腕が勝手にまるで何者かに操られているかのように勝手に動き出す。右手でその左腕を抑えようとするも、抑えることができず左手に翻弄されるように体全体が持っていかれる。どれだけ理性を以てしても進化を止められない人間の姿が提示され、ダンスは終わる。
本作において、木村という「一人」の身体に、「複数」の人間の姿、人類の姿が示されているように私には感じられた。この点を私は非常に興味深く感じたため、後述したい。

4つ目の作品は野口友紀の『individual』。本作は主に4つのパートに分けられる。まずはガールズパンクのような音楽に合わせてのダンスのパート、暗転下での無音のパート、機械音の中でのパート、シャンソンのパート。ストリート系ダンスから徐々に自己の内面に潜っていき、最後のシャンソンで理想の自分を見つけて解放されるような印象を持った。
本作のダンスはタイトルの通り、野口自身の身体の「個」性、自身の身体を追求していくようなダンスであった。とりわけ印象的だったのは、暗転下におけるダンスだ。暗転下、観客は視覚を奪われる。その中で、ただ演者の息遣いと身振りの音が聞こえてくる。その息遣いと、演者の体が劇場内の空気を揺らすことによって、むしろ観客は生々しく演者の身体を意識させられる。またそのことを通して、観客は自分自身の身体にも自覚的にさせられる。
ダンスは身体の動きを見せる身振りの芸術であるにも関わらず、観客の視覚を完全に奪ってしまうという点に心惹かれた。当然ではあるが私たちには五感が備わっており、ダンスを鑑賞する際、視覚のみならず、聴覚や触覚等も用いて鑑賞しているはずである。しかし劇場でダンスを鑑賞する際、わたしたちはダンサーの身体を「見る」ことを無自覚のうちに自明の条件としている。というのも、バレエ等劇場で行われる身体表現は一般的に、身体表現を視覚的にどう「見せるか」を追求する芸術であることが多いからだ。しかしながら、身体は聴覚や触覚によっても知覚できる。息遣いや演者のダンスによって空気が動かされるのを私たちが肌で感じることで、演者の身体が浮き彫りになる。むしろ視覚を奪うことで、かえって生々しく野口という「個」の身体を感じられることができた。
本作はダンスというものは身体を「見る」芸術だ、という私の中に無自覚にあったダンスへの自明性を問うてくれるような作品であった。

最後の作品は遠藤僚之介による『pure()』。
明転と共に舞台上には真黒なタイツを全身に着た男女と、観客席に背を向けて舞台中央に立っている男(遠藤)がいる。背を向けている男が本作の主役であり、全身タイツの男女は黒子としての役割を担っている。
黒子の男女はガールズヒップホップによって遠藤をダンスに誘おうと何度も試みる。しかし遠藤は背を向けたまま決して動くことはない。時折舞台上には真黒な水が流れている映像がスクリーンに映し出される。遠藤を誘惑している黒子の二人はその映像に目を向けることはないが、遠藤は動かず映像の方を見つめている。映像は男の心象風景なのだろう。その真黒な水の流れる映像と黒子たちが踊るガールズヒップホップの間には大きな隔たりがある。おそらく黒子たちの踊っているダンスと、男の中に流れる固有のリズム(つまり水の流れ)は全く別のものなのだ。
男が黒子たちのダンスに乗ることは一度もなく、黒子たちは舞台上から去っていってしまう。一人残された男はやはり背を向けたままスクリーンを凝視している。男は自分のリズムを見つけたのだろうか。次第に耳をつんざく音が高鳴っていき、男は初めて観客席に向いて踊り始める。スクリーンには高速で過ぎ去っていく街並みの風景が映し出される。男はその映像を背に舞台上を縦横無尽に駆けていく。男は日々都市の喧騒の中で生き、男の体内の中では都市の喧騒や水の流れといったリズムが染み付いていて、そのリズムを表現しようと必死にもがいているようである。それはガールズヒップホップのような人工的な作られた「型」によるダンスではない。自分の内なるリズムを何とか表現しようともがくダンスだ。男は音が鳴りやむと同時に暗転し、ダンスが終わる。
 公演時間の大半を観客席に背を向けているダンサー、遠藤(男)の姿は観客に重なる。舞台中央で黒子たちのダンスを見ている遠藤のように、観客もこれまでにダンスの公演を見てきたはずである。様々な型の、様々なダンスを見て感動し、時に圧倒されながら、少なからず影響を受けて観客は劇場を後にするだろう。あるいは見た公演から影響を受けて自分もダンスを始めようとするかもしれない。でも大事なことは、自分の内なるリズムに耳を澄ませて、そのリズムを表現することだ。何かの「型」に自分を当てはめて自己を表現するのではなく、自分自身の内なるリズムを表現することがダンスの本来の営みなのだ、という強いメッセージ性を感じさせる作品だった。「ダンスの天地vol.01」の締めくくりにふさわしい作品だったといえるだろう。

以上、簡単にではあるが「ダンスの天地vol.01」で披露された5つのダンスをみた。いずれも全く違う傾向性を持った作品であったが、共通していたのはいかにしてダンスという「型」から逸脱するかという点と、いかにして観客をダンスに誘うかという点にあったと思う。
 アランは『芸術の体系』において、身振りの芸術つまりダンスの特徴は、見る人を楽しませるのは二の次で、本来の目的は演者自身の喜びにあると主張した。こうした身ぶりの芸術について見物人が判断を下すには、自ら体の動きを真似るか、自分の体に染み込んだ伝統を基準にするしかない。ダンスという芸術は、演者が観客のことを考えず、徹底的に自己の身体に内在し、自己自身の身体を追求していく喜びを見せつける営みなのだ。そしてそのことを通して、観客の身体に沈みこんだ内なる身体の伝統が呼び起こされるのだとアランは考えた。
 本公演で披露されたいずれのダンスも、このようなアランのダンスの定義に即した作品であったように思う。例えば『individual』はまさにダンスを通して徹底的に自己の身体の内に沈んでいくことで、観客の身体感覚を揺さぶる作品だった。実際に私自身何度も自分の身体が揺すぶられる感じがした。
とりわけ『人はどこまで進化を望むのか?』は、徹底的に自己の身体の内にこもっていくことで、自己の身体だけでなく、「人類」の身体とは何かを問うレベルにまで達していたように思う。木村のダンスは、ダンスの「型」としてデフォルメ化された身体の動きと、サンプリングされた日常生活の動作(花を摘む等)を織り交ぜながら、舞台上に「人類」を生み出した。
当然舞台上にあるのは木村ただ一人の身体なのだが、人間が取りうるだろう動き(それは必ずしも日常の動作とは限らない)を突き詰め、また木村自身の体の内に眠るリズムを徹底的に突き詰めて、それを舞台上に表現することで、身体としては木村個人の身体なのだが、そこに現れているのは「人類」の身体だと言えるような境地に達していたと思う。
そもそも人は皆生きてきた背景が個々に異なり、体の中に流れているリズムも個々に違う。にも関わらず同じ人類だからこそ、共通の身体の文法を体の奥底で共有しているはずである。でなければ、そもそも他者の身振りが何を示しているのか理解することはできないだろうし、ダンスのような身振りの芸術は理解不能なものになってしまうだろう。ならば自己の内部を徹底的に突き詰め、その中に流れる普遍的な身体の文法とでもいうべきものに辿り着き、それを理解できる形で翻訳して再提示することが、優れた身体芸術なのではないだろうか。そして木村の作品はそのレベルにまで達していたのではないかと、私には思われた。
それはベンヤミンが純粋言語と呼んだものに近いかもしれない。ベンヤミンは英語やドイツ語、フランス語といった言語が(常に誤訳が付きまといながらも)翻訳可能なのは、そうした言語の背後に全ての言語を統一する純粋言語というものがあるからだと論じた。純粋言語から、英語やドイツ語といった個別の言語が生まれたのである。
身体についても同じではないか? ボディランゲージや、ダンスにおける身振りが指し示す意味は国によって異なるが、にも関わらず異国の人間の身振りが何を示しているかを私たちは直感的に理解することがある。それは純粋言語のように、普遍的な身体の文法とでもいうべき、純粋身体のようなものがあるということにはならないだろうか。
そうした表現はおそらく「型」だけでは表現できない。「型」というのは、人工的に作られた文法であり多くの人が美しいと感じる表現を定式化したものである。例えばバレエやモダンジャズ等、ダンスにはいくつかの「型」があるが、それらは人を効率よく感動させるための技術である。人間の身体を追求していった時、誰かが美しく、心地よいと感じたある一定の身振りを、ある種の文法として定式化したものである。だからその「型」を習得することで、ある一定レベル人を感動させるダンスが可能になる。しかし、それだけでは不十分だ。なぜなら「型」となってしまった身振りにはダンサーの個人の身体の固有性が積極的に排除されているからだ。「型」を身につけることで、ある一定まで人を感動させることはできるが、「型」に完全にハマってしまうと、ダンサーの身体の固有性を表現することは出来なくなる。
哲学者のヘーゲルは「普遍」は「特殊」なる形を通して「具体的普遍」を実現すると論じた。特殊、つまりこの場合ダンサーの「固有」の身体というものを徹底的に突き詰めることで、初めてそこに「具体的普遍」というものが表現される。「型」を離れてもう一度自分自身の身体の「固有性」に立ち返って自分の身体の奥底に眠る普遍的な身体の文法とでもいうべきものに触れることで、逆説的に「私一人」ではない「人類」の身体という普遍的なものに至れることができるはずである。そしてダンサーがそれを表現することで、観客は「型」という人間が人工的に作った感動ではない、別の感動に出会えるのではないか。それは観客が「型」という人工的に作られた文法を知らなくても生まれる感動なのだ。なぜなら観客自身の中に元からあるはずの文法なのだから。
私がダンスを見るにあたって不安に感じていたのは、ダンスの「型」を理解できないのではないか、という点だ。英語を習ったことのない人が英文法を理解できないように、ダンスを習ったことのない私に、ダンスの文法を理解することなど可能なのか?という不安が常にあった。実際私は本公演で提示されたダンスの「型」としての文法を正しく理解できていないかもしれない。しかしながら楽しく、時に心に突き刺さるような切実さを感じ、ダンサーの感情と自分が共振する感覚を覚えたのは事実だ。そういった点で本公演はいずれの作品も、「型」に立脚しつつも、それを逸脱するような点があったように思う。でなければ、「型」という文法を共有していない私が何かを感じ、感動するということもなかっただろう。
そして何より、『うちそと』や『pure()』等の作品は私をダンスへ誘ってくれているようで、それが気持ちよく快感だった。言葉による抽象的な議論はさておき、アランの言うように、優れた身体を見たときに自分がそれを真似したいと感じるその気持ち、身体の共振こそがダンスの本質なのだということを教えてもらったのが、私にとっての「ダンスの天地vol.01」だった。

竹田真理

90年代後半に活動を開始し、2000年より関西を拠点にコンテンポラリーダンスの公演評、テキスト、インタビュー記事等を執筆。ダンス専門誌紙、一般紙、ウェブ媒体等に寄稿。

 

コンテンポラリーダンスが新しさとイコールで結ばれていた時代を遠ざかり、一つの傾向や価値観では語れない混然とする現在にあっても、アーティスト個々の現場では、自身のダンスの探求が道を見失ったり、停滞したりすることはないようだ。「ダンスの天地vol.02」の尖がった表現の数々を見て、こう確信した。30年を超える日本のコンテンポラリーダンスの流れにおいて、何でもありと言われた初期との最大の違いは、創作にあたって参照される事項の多さだろう。先人の仕事への評価と敬意、舞踊史への配慮や技術論への関心、加えて民族、民俗、風俗、生活文化、異文化や広範な身体文化など、「既にあったもの」、「常にあるもの」への参照が増している。いきおい、過去への視線が重みを増し、越境よりも本質回帰が感じられもする昨今だが、本ショーケースに参加した8作の中には、ダンスの外に文脈を求めるもの、既存のいかなるダンス言語とも一線を画す表現を追求するものなど、状況をかき混ぜる果敢な挑戦が見られて新鮮だった。やはり時代を一括りに語るなど無謀なことなのだ。以下、個別に作品を振り返る。 みゝず(菊池航、高野裕子) 『socket』 二人の身体はおよそ代理表象としての機能を放棄し、過去でも未来でもない剥き出しの現在に置かれている。振付けられた動きはほとんど見られず、立ち、歩き、佇み、振り返る等の動作がその場で選択されていく。浮遊する埃のように漂いながら、或いは空気や床としっとり馴染みながら、身体は無造作にそこに居て、迷いなく、泰然としている。一方 、感覚は研ぎ澄まされ、互いの存在を繊細に感じ取っている。空気を震わせる羽音のような、それぞれの身体が発する波動のような気配を感受し合っている。 あれこれと備品の載った大きな台車を引いて現われた二人は、核戦争後の世界をあてどなく旅するゲサクとキョウコに見えなくもない。だが実際は、たまたまバックヤードにあった台車を引いてきたに過ぎない。台車から取り出した携帯用のレコーダーは、微かなノイズを発している。バケツを取り出し、それを下げて菊池は客席の階段を上がっていく。階段の上から合図を送る菊池。それを舞台から見上げ、遠く応えるように手を振る高野。彼女の表情に微かに笑みが浮かんだようだが、それが笑みだったかは判然としない。微かな、蝶の羽音ほどのやりとりが二つの身体の間で交わされるとき、われわれの普段の微笑みが、いかに記号そのものであるかに思い至る。 やりとりは身体のコンタクトを通しても行われる。それぞれの延ばした手が繋がれる時、偶然に触れたようにも、求め合っていたようにも見える。高野の胸元と背中を挟むように菊池の両の手のひらが置かれる。抱擁ともサポートともつかない接触のしかたを目にして、この時この場での選択によって、こうとしかなりようのない形で何かが交感されたと気付いたとき、言いようのない官能が広がるのを感じる。 ここに見る身体の在り様は、ありのまま、自然のままのようでいて、現実には既に、常に失われているという意味で、フィクショナルだ。ダンス的であることと対比されるありのままの日常こそ、実は強固にコード化されており、目的や意味のコードなくして、人は朝目覚めても動作を始めることができない。私は本作を日を変えて2回見たが、内容は違っていた。即興なのである。ダンスと日常の双方のコードを免れ、再現ではないダンスを探して、剥き出しの現在に身を置く高野と菊池。その試みは道なき道を行くに等しい。 DANCE PJ REVO(田村興一郎) 『MUTT』 複数のモチーフを凝縮した力に満ちた一作。ダンス的な動きは少ないが、静かに遂行される動作に作り手の意志が充満している。床に貼られた二本の黄色いテープは上手後方で直角に交差し、周辺にガラスのボトルが数本。彩度を抑えた照明と漂うスモーク、土、何かが砕ける乾いた音。地の底か廃墟のようなイメージの舞台には、床のラインが示す抽象性と、設定が掻き立てるイマジネーションが同居している。 床に横たわる田村は、仰向けのまま上へ向かって歩行するような動作を見せる。動作はゆっくりと重く、生命感を欠き、機械、或いは化石、或いは眠れる何者かの目覚めを思わせる。その両目が黄色いテープで覆われているのを見て、私は慄然とさせられた。身体に刻まれた強烈な負荷のしるしであり、田村の中にある自ら目をつぶすほどの衝動と渇望の表れと思われたのだ。 重く固い身体はじっくりと立ち上がり、ポケットの中に握りしめた土を床にさらさらと落とす。地面の下で過ごした長い時間の暗示とみえる。黄色いライン上を匍匐前進する田村は、ライン上に置かれたボトルを一つ、また一つ討ち取るように腹の下に抱え込んでいく。そしてあるところでボトルを両膝に挟んで立ち上がる。                               ボトルを足で転がして戯れ、その足捌きからステップに入っていく箇所は、唯一ダンスを解禁するシーンだ。ロック(中断)を繰り返し、背面で床を回転するストリートの語彙を、重いギアのかかったエネルギーの塊のような身体で動く。黄色いラインの交差上では、両手を垂直に伸ばして空間性に言及し、個の身体の物語を世界の大きさの中で測ろうとする。タイトル『MUTT』は20世紀、芸術の概念を変えたマルセル・デュシャンの便器(作品名『泉』)の署名から採っている。リファレンスを通して、今この時代にダンスを通して自らの生を生きようと欲する自分自身の選択を重ねている。 ボトルに息を吹き込む音響は、身体のパーソナルな側面を親密に伝える。膝の間のボトルは男根のしるしであり、その後、自らの存在のコアを晒すと、立ち姿を照明が陰影濃く照らし、ゆっくりフェイドアウト。その残像まですべてが挑戦的だ。踊りのカタルシスに持ち込まず、スタティックな推移の中に、飛躍を期して身を屈めている現在の思考とヴィジョンを描き出す。今の田村にしか作れない一篇である。    久保田舞『APOLLO』 終始、暗めの照明はダンサーの表情や身体を明瞭に照らし出さず、観客に対して不親切なほど、多くを見せず語らないまま舞台は進む。その確信犯ぶりが第一の印象だ。日常性とグルーブと速度と没入感。あるいは形象的な振付とベタな身体性。久保田舞の作舞はこうした要素から一歩引いたところで動きへの動機を探るかに見える。 両サイドから射す光がようやく視界を保っている舞台。空間に水平に走る2本のゴムテープが二人のダンサー(久保田、河内優太郎)の腰に繋がれていて、二人はテープの張力に引っ張られ、反発するように身体を傾ける。ゴムテープは身体に制限を加え、動きの質を引き出し、操作する力として作用する。3人目のダンサー(小林萌)は最初の一人と一本のテープの両端でつながっている。相互に引き合い、外からの見えない力の作用を受け、舞台から去ったり現れたりするうちに、3者が舞台裏を通して皆同じテープで結ばれ引き合っているように辻褄が合って見えてくる。もちろんそうした演出なのだが、シーンの断片が一致し、パズルが嵌った感覚は、何か大きな構図の存在を思わせ、舞台で目にする事象はその一部である(に過ぎない)という感覚をもたらす。 動きはダンサー間のコンタクトにおいても「テンション」を一つのタスクとしている。だがコンタクトインプロビゼーションの自発的な動きの流れとは異なり、動きをオフバランスのまま切り取ってフリーズさせるなど、しばしば「中途」「断片」が示される。男性が片腕で久保田を軽く抱え上げると、久保田は宙で足を掻く。ゼンマイ仕掛けの人形がネジを戻しながら空虚に動くように見える。熱に煽られることなく静かに進行する舞台からは、内的な発露であり自発的な衝動によるとされるムーブメントの自明性に対し、そうではない筋道からダンスに向かう思考が伺える。力、作用、方向性といった構造的なアプローチから動機を探っているようなのだ。ただこうした合理的な解釈のみで受けとめるべき作品では決してなく、男性が冒頭に上着のフードを敢えて被り、後半では服を脱ぎ去りながらソロを踊るなど、なんらかのドラマが埋め込まれているのだが、どう読めばいいか。 照明を落とした後半、光と影とダンスの関係が今一つ掴めなかったが、あの暗さは演出上の瑕疵なのか意図なのか、判断が付かない。 Arts For All((Alain Sinandja) 『WHY???』 ショ-ケース中、最も社会的な主題を持つ作品だ。Sinandjaも出演した下村唯のレクチャーパフォーマンスの形式を借り、開始時に観客にラジオ体操への参加を促す。本作品内容への関与を求める仕掛けだろう。 「じゃんじゃららららららららら、ら!」甲高い声でまじないのような不思議な言葉を発しながらMAYUMIが舞台を歩き回る。扇動か、覚醒の呼びかけか、張りのあるセンセーショナルな声は、聞けば、太鼓の音を声で表現したものだという。 振付・構成をしたアフリカのトーゴ出身、Alain Sinandjaのほか、セネガルのサバールと呼ばれるダンスと太鼓を習得したニイユミコ、同じくサバールのダンサーMAYUMI、下村唯作品でアランと共演している伊達研人。MAYUMIは両腕を交互に回し、脚を腿から引き上げ細かく地団太踏むかのような、あまり見慣れない部族的な踊りを見せる。ニイは手で鋭く空を切り、印を切るにも見える呪術使いのような身振り。作品のコンテンポラリーな外枠の中にそれぞれのダンスを注入し、グローバル化された世界のダンス文化を俯瞰しながらSinandja自身のオリジンを見つめる。映像に現れるのは子供たち、涙する女性たち、男性たち、政治家、宗教家、戦士たち、都市や国土の風景など、多様な切り口をもつアフリカ社会の様相である。「WHY???」の問いかけは世界のダイナミズムの中に置かれる故国を可視化したい思いからだろうか。日本のダンスが驚くほど政治性を帯びていないことにインタビューで言及してもいるSinandja。下村唯の『亡国ニッポン:夢ノ国』をトーゴの立場から描いたバージョンと読めるが、浮き彫りにされる現実は、関係の非対称性だ。 伊達とSinandjaの関係は覇権を握る先進国と、収奪される途上国の関係に置き換えられるだろう。Sinandjaの背後で影となり支配する伊達。彼の手の先一本がSinandjaを翻弄し、蹂躙するデュオ。だが関係は逆転する。終わりのない敵対が心に刺さる。 最後には4人の大きな笑い声で大団円となるが、そのような世界は来るだろうか。笑いはどこか皮相に聞こえなくもない。最後の闇の中で響く太鼓も含め、アフリカの音とリズムと踊りをふんだんに用いた作品だが、Sinandjaは自らの踊りを民族伝統のそれではなく、コンテンポラリーの語彙を用いて踊る。固定されたアフリカのイメージに自らを押し込めることなく、世界のダンスの前線で生きているとの自負だろう。 Umishitagi(中西ちさと) 『Umishitagi 1st GIG』 「ウミ下着」のバンド編成版グループによる作品。独立した3つのシーンが並列した構成で、シーンとシーンの間に関連はない。 1つめは上手前のスタンドマイクにスポットライトが当たり、今村達紀がソロ・パフォーマンスを行う。一膳の箸をドラムのスティックのように扱い、リズムを打ったり床に立ててみたりの一人遊びだ。スティックはどうしたわけか意のままにならず、手から零れ落ちる。佇む今村にほのかなシュールさが滲むが、幾分こじんまりとした芸ではあった。福井菜月の威勢の良い声が暗闇と静寂を破り、ロックコンサートばりのMCを繰り広げて次のシーンへ。 2つめは今村も加えた6人全員がカラフルなTシャツ姿で舞台に散らばり、背中を向けたままその場で踊る。指でリズムを取る人、ステップで動き回る人、各自が思い思いに動いているが、空間を広く立体的に使い、群れとして振り付けられている統一感があった。背を向けたまま顔を見せず、曲が止んでも踊り続けるなど、煽り立てるJ-POPに反しての乾いたトーンが、ダンスからの逆説的な距離を感じさせた。 3つめは脚/足のダンス。顔を隠したステップが黒田育世(BATIK)の『SIDE B』を、前進後退の繰り返しが黒沢美香の『Wave』を連想させる。後方の暗闇から上体を倒した姿勢で一歩ずつ前進してくる者が一人。客席前までくるとそのまま同じ足取りで後退する。再び前進してくる時にはダンサーは二人に、やがて3人、6人と増殖する。前屈して顔は見えず、6脚の動く足だけがサイドからのライトに照らし出される奇妙な光景だ。足音が刻むリズム、上体の上下動、スケートのように床を滑るステップ、内田結花が一人とびだしてきて踊るソロなどバリエーションが加わり、ユニゾンでザクザクと床を踏む様など壮観だが、前屈、足踏み、前進・後退の基本は不変。ミニマルでマニエリスティックなアイデアが光る。しかしそのままオチもなく時間切れといった風に終わってしまった。 メンバーからのアイデアを多彩に取り入れる手法が、中西ちさと本来の雑種の魅力、ごった煮のパワーと結び付くことが期待されたが、まだ試験的な段階だろうか、いずれのシーンも弾け切れていない感が残る。コレクティブという集団形態が上演に責任を持つ者の不在につながり、作品の強度を欠く例を見てきた。その轍を踏まないようにと願いたい。 敷地理 『開かれ/リヒトウンク』 ホリゾントが深い青一色に染められるが、それは一瞬のことだ。椅子の上に全身を反り返らせた男がいて、腹にアイスクリームの固まりに植物を植えたものが載せられている。これをカメラが至近距離で撮影しホリゾントに投影するが、意味は読み取り難い。男は運び去られ、舞台は映像から物質の現前する世界へ。ソデから大量の日用品が投げ込まれ、ゴミ・がらくたの山が出現する。 女性(小松菜々子)が一人、床をローリングしながら現われ、ゴミの山を転がる。コントロールを欠いてばたばたと転がる様子は、消費生活の残骸に取り残され、なおここで生きざるを得ない“なけなし”の生の在りようと映る。2011年の震災“以後”への言及でもあるだろう。女性は横たわり、起き上がり、水を飲み、シャワーを浴び、そこに住まう身体を、私的で最低限の“剥き出しの”生としてマイムで示す。暗転が入ると、客席後方で男(敷地理)がマイクに息を吹き込む。息は音響として舞台に流れ、観客各々の耳に至極プライベートな距離で届いてくる。 もう一人の演者(村川菜乃)が舞台に入ると、二人の女性は同調や反発、支配と被支配、抗争の様相を見せ、痙攣して身体の臨界を呈する。一方、男声のナレーションが「夢」「呼吸に心を向けて」「呼吸を意識する」などの詩の言葉を発する。身体が被る不条理な暴力に対する、呼吸という最もベーシックな身体作用をもっての抵抗への、親密な声による呼びかけ? 映像を含めた冒頭のシーン、パフォーマンスする身体、音声とテキスト、これら要素を配していく手法はインスタレーションのそれに準じており、身体から内発的に生まれる遂行的なダンスとは成立が異なる。タイトルはアガンベンからと思われ、ベケットの戯曲『息』への参照もあるという。様々な素材・文脈から意味の生成をはかり、状況への批判精神をにじませた野心的な試みといえる。ただ各要素が有機的に結び合い、上演において一つの世界像を立ち上げたかというと難しい。何らかのテキストが欲しいし、個々の要素にもっと惹きつけるものがあればと思う。最後に登場する男性(黒田健太)だけは、独裁者の輝きを放ち、見る者の心をざわつかせた。ただし私が所見した日と翌日とでは印象は異なったと聞く。成功した舞台を評したかったが、これも上演芸術の宿命だろうか。 宮脇有紀 『A/UN』 両足を前に投げ出してペタンと床に座り、腕も頭部もだらりと脱力、膝は少し曲げて浮かせている。この何気ない姿勢も、踊り手自身によって入念に選び取られているのだろう。足首より先が小さく動き、やがて独自の身体言語を紡ぎだす。 大きく前に振りかぶって前屈し、両腕を脇から真上へ突き出すと、手指がそこだけ生き物のようにうごめく。再び上体を起こし、軽く握った左右の手を、高低差を付けて掲げる。身体を直線的に使わず、形なき形のままに探索する過程で、時折このようなアイコンとなるポーズや身振りが現れる。体の側面を弓なりに湾曲させる形も、見る側の感覚のツボに気持ちよくはまる。内的感覚に降りてゆく行為と、ポーズやフォルムとしての実りとが、ひとつらなりの時間の中で間断なく行われていく。 宮脇自身がパンフに載せたテキストは、日常の中にふと見つけた光景のあれこれを、幾分カジュアルにつづっている。自身がリアルと感じる鮮やかな瞬間を身体に落として、嘘のない実感として語り出そうとする。ところがそうした「日常」や等身大の価値観を、当の宮脇の身体自身が越えてしまい、より複雑で深淵な身体の襞(ひだ)に分け入って行こうとする。舞踏にも通じる不定形で力の方向の錯綜した、びっしりと濃やかな肌理をもった身体が、そこに現れている。 観客はそうした一連を緊迫したドラマとして、息を詰めて見続けるのだが、あらためてテキストを読めば、あの段差をつけて掲げた腕は猫の手だったのかと、そのギャップに軽い肩透かしを食らう。逆に言えば、テキストなくしても動きそのものを独自の肌理をもった構成物として見ることに十分耐える表現なのである。 後半に現れるのは、四つん這いから高く腰を引き上げ、ちょうど体を二つ折りにしたように深く前屈した姿勢。ヒトが二本足で立つより前の四足の獣を思わせるこのポーズは、舞踏の先人や身体の内なる歴史と向き合うコンテンポラリーのダンサーらによっても、しばしば試みられてきた。これをモチーフに身体の壮大な歴史を語ることもできるだろうが、宮脇はこれをただ身体の可能態の一つとして、自身の身体に訪れた偶然の実りとして、誠実に提示し、通過する。それが舞踏のヒロイズムを相対化する契機となるかもしれないことに、おそらく本人は気付いていないだろう。 オームアムア(中屋敷南・中瀬俊介) 『白夜草』 ダンスと映像のユニットにテクノミュージック(角田寛生)も加わり、実質は異ジャンルの3者によるセッションだ。ホリゾントに投影された四角い枠には、背後に森、手前に風に揺れる草原の広がる何の変哲もない風景の映像。枠は気付かぬうちに徐々に拡大しており、森の背後の山が画面に入って白い岩肌を見せている。しかし動画全体は遠近感に乏しく、どこか不自然さを伴う。自然の風景の実写動画と思しきものが、いつのまにかCGに取って代わられているのである。 映像の手前にはダンサー(中屋敷南)が、胸のみを覆うトップス、長い腰蓑状の衣装を身に着け、ベリーダンスを思わせる腰のうねりをベースとした動きでひとり踊っている。曲線を強調した艶めかしいダンスは、タイトルの植物をイメージしたものだろうか。 映像は次第に画素の乱れを生じ、風景画からデジタルなグラフィックへと移行。やがて無数のドットが星雲状に集合し、凹凸のある多面体を形成する。画面の中央に屹立する多面体は、ちょうど舞台中央で踊る中屋敷の身体と相似的な対をなすアイコンとも見做せる。画面には下降する水平の直線、曲線、バーコード、文字列などが次々と現れるが、アイコンが全身(?)から白い胞子を発する様は、そこだけ呼吸する生命体のようである。 タイトルの「白夜草」とは、白夜にのみ花を咲かせるという実在しない植物。架空の植物や天体などを記したヴォイニッチ手稿が発想の源だという。物質的な音源を介さないシンセサイザーも、デジタル言語に還元されるグラフィックも、アーティフィッシャルな作りものであり実体を伴わない点で手稿に記された文物に類する。しかし所詮は時代のテクノロジーに限定されるエレクトロテクノやCGに対し、この不可解な手稿は未解読のまま何世紀にも渡り謎と想像を孕んで生き延びる。そしてダンスは、植物と人間のあわいで有機的な線を紡ぎ続ける。人間の想像力に纏わる魅力的なコンセプトだが、各要素がこれを体現するのに説得的であったかどうか。特に卓上で操作される映像や音楽が生身のダンスと「並置されている」印象があり、相互の関わりが希薄であると感じられた。踊る身体と映像とのリアルタイムでの相関が見られるなど、上演芸術であること、異言語の共演であることの意味がコンセプトと不可分の形で追求されればと思う。

岡元ひかる

本公演について  関東圏を拠点とする振付家の参加数が、回を重ねるごとに増加している。ここには、前回参加した振付家・下村唯が、そのあと横浜ダンスコレクション2019のコンペティションⅠにて審査員賞およびポロサス寄付基金Camping2019賞を受賞したことが、少ならからず影響したようだ。実際、今回参加した振付家たちと話をしている中で、これから作品が発展するための参考になるフィードバックを得たいという考えが、本公演への応募の大きなモチベーションの一つになったことが見えてきた。  このことは、本稿を執筆する姿勢に影響を与えている。ダンス作品を何らかの文脈に位置付けること・上演の立会人として、その場その時の状況性を記述すること。それを意識することはもちろん、今回は各作品が今後の再演を見据えていると想定した上で、とりわけドラマトゥルギーに注目しながら、今後の発展可能性についても筆者の視点から考察することを心がけた。     みゝず(菊池航、高野裕子)『socket』  タイトルの「socket」とは、ネットワーク用語における「通信端点」だそうだ。このことから、本作で主題化されたコミュニケーションのモデルを思い描くことができる。それはA点から発信される情報が、まるでネットワークを伝うように、その先にあるB点へ届くというモデルだ。この推測を後押しするように、二人のダンサーは電波を受信する「端点」としてのラジオを何度も手に取る。身体的コミュニケーションという大きなテーマに対する振付家の考え方が、こうしたところに表れていた。本作における「端点」はラジオであり、何より身体である。  一方のダンサーが、相手の身体に手を当て、相手の内部感覚を触診する「情報の受取り手」のように見える瞬間は、このコンセプトを象徴的するようだった。小刻みに振動する互いの肩に、順番に触れる。また別のシーンでは、微細に動く菊池の膝に、高野が手を当てる。それを鑑賞する第三者には、身体感覚の受取り手と伝え手という、それぞれの役割を担う「端点」が見えてくる。  一方、その振付を「彼らが」どう経験しているかに意識を転じれば、その二役はあって無いようなものだと気づくだろう。膝を触られている菊池は、触られる客体であるが、同時に高野の手の圧力、面積、体温…を感じている主体でもある。  この意味では、彼らの身体によって起きていた事象を、丸ごと「端点」間の線的な往来という図式に当てはめるのは、なかなか難しい。そもそもそれ自体で空間的広がりを持つ身体は、現実において点的ではない。他のシーンもひとつ挙げよう。菊池の手足は床に触れている。その菊池に、高野は体重の一部を預け、かつ両足を重ね合わせ、共に前進した。互いにバランスをとり合う二人がここで共有する感覚は、どこから生まれているだろう。「菊池側」でも「高野側」でもなく、その「間」としか言いようのない場からコミュニケーションが始まる、そのような様子が感じ取られたのである。  身体間のコミュニケーションは、通常、様々な広がりにおいて展開される。そのため、舞台上の現実に照らすべきアイディアとしては、「通信端点」が十全に機能したとは言い難い。しかし逆に言えば、身体的コミュニケーションにおける「端点」という着眼は、現実離れしているからこそ、新たな表現の可能性を開くとも考えられる。もし身体的コミュニケーションの現実に対し、あえて「(端)点」を追求してみる実験があるとすれば、その振付はどのような非日常性を切り開くのだろうか。本作のコンセプトは、このような好奇心を掻き立てる。   DANCE PJ REVO(田村興一郎) 『MUTT』  床に引かれた黄色い二本の線が、「立ち入り禁止」という文句を連想させた。両目をテープで覆った田村は、それらが枠取る内側を動く。さらに別のシーンでは、床に突っ伏して頭のうしろ、あるいは立ったまま背中のところで両手を組んだ上で、転がった瓶を立ち上げようとする。なんとも効率の悪い体勢で瓶に拘泥する姿は、不格好だ。本作はこうして、様々なレベルで制限される身体を「MUTT(=阿呆、のろま)」なものとして皮肉った。もちろんこの皮肉が俎上に載せるのは、そのじつ、芸術と制限をめぐる問題である。書き手の感覚が生のまま登場するような演出ノートの言葉から、それは分かる。  その演出ノートには、本作の特徴が顕れていると言えよう。まず特に「芸術迷子」という詩的な造語には、田村独自の視点が凝縮されているが、この表現は、本作の問題意識が言語以前の違和感レベルで把握されている印象を与える。確かに演出ノート後半では、より具体的な視点が提示されている。しかしどこかナイーヴさを感じさせる文体ゆえに、読み手には本作の言語的側面の弱さとして受け止められかねない。  だが同時に、このいわば感覚寄りの傾向こそ、社会問題を扱う本作の強みでもあるだろう。それは本作における表現が、鑑賞者の情に訴えるのでも、言葉を用いて理性に訴えるのでもなく、鑑賞者の身体感覚に訴えられるという点である。上演の最初に登場した音と身体の関係を切り口に、その様子を記録しておきたい。  冒頭、床に寝そべってポーズをとる田村は、足を組み替える動きこそあれ、彫像のように静かである。そこへ乾いた物質がぶつかる音、水が流れ落ちる音、そして瓶の中に息を吹き込む「ボオー」という低音が順次に登場し、各音の手触りが私たちの身体感覚を揺さぶる。一方、田村の身体への注目から引き起こされるのは、それら全てと対照的な触覚経験である。振付は決して派手でないが、その身体と動きを見つめることで、粘性あるいは弾性をもつ物体に触れた時のような、抵抗力と重さを感覚させられる。ここから連想される「のろま」なイメージは、運動の速度として表現されたわけではない。多様な音質との対比が現前することで、鈍さのある「迷子」的な身体のキャラクターが際立ち、それは私たちに触覚的に感知された。  「芸術迷子」は、こうして感覚的に理解される。それを無理に言葉で切り取る必要はないだろう。その一方、作品のアイディアを一旦客観的言語に置き直す作業も無益ではないかもしれない。言葉と身体(感覚)の折り合いをどうつけるか。ドラマトゥルギーをめぐる普遍的な問いが浮上した感じがした。     久保田舞『APOLLO』  コンタクトを駆使した動きが主役を演じた作品だ。  前半、ゴム紐で結ばれたダンサーたちが組みつほぐれつ、互いの距離を様々に変化させる。ここではダンサーの関係性にドラマ性が滲んだ。しかしゴム紐に関してさらに印象的だったのは、それがダンサーを囲む何もない空間に引かれた補助線のように、観客の注意を彼らではなく彼らの周りへと促した点である。女性ダンサーがリフトされ宙に浮くと、こちらは身体そのものの浮遊感を見るというより、身体の周囲に、水や宇宙の広がりを想像させられる。「APPOLO」というタイトル、それに「ゴボゴボッ」という水泡音の登場が、このようなイメージを加速させた。さらに、ある速度で動いていたダンサーが突如、動きのスピードを急降下させる瞬間がいくつも登場する。速度が唐突に落ち、動きが超スローモションになる時、こちらはダンサーの身体へかかる水の抵抗力を想像してしまう。何もない場所に架空の壁を立ち上がらせるマイム俳優ではないが、通常のダンス作品鑑賞でダンサーの身体を見つめる場合とは、ネガポジが逆転した知覚経験が促されたのが面白い。この意味で、本作のダンスはマイム的な性格も含んでいるといえよう。  中盤には、暗転のなかで三人のダンサーが懐中電灯を用いる。海中か宇宙空間の探索といった場面設定を彷彿とさせるが、その道具の用い方には既視感があり、さらなるひねりがほしいと感じた。だが、そのさらに後に登場した男女のデュオでは、動きの展開するスピードの緩急・女性ダンサーが関節をロックしたり緩めたりすることで生まれる身体の質のバリエーションの変化が緻密である。その隣では、女性ダンサーが壁に向かって歩行をベースにした動きをひそかに展開している。久保田の想定する「APPOLO」へと近づこうとしているのだろうか。  本作のタイトルは、私たちの生活空間と隔たった宇宙空間のような世界を象徴するものとしては納得できる。ただそれが「いつ生身で見れる時が来るか、わからないが存在は確かにしている」ものに「輪郭に触れるように近づく」という振付家のアイディアとどのように関連するのかは、第三者には納得しにくい。見たことのないものを想像するのではなく、「輪郭に触れるよう近づく」という発想自体、謎めいていると同時に新鮮さを感じるので、ぜひそのアイディアの内実を実践によって説得してほしいと感じた。   Arts For All(Alain Sinandja)『WHY???』  開演前、本誌に掲載されたインタビューのテクストを渡された筆者は、本作を鑑賞するより先に、それを読んだ。そこでは、振付家本人が「未だ、精査し、深めたコンセプトによる作品を作ることが出来ていません。」と謙虚に語っている。しかし実はそれによって、最初からコンセプトが煮詰まっていないという先入観と共に、本作に対峙することになってしまった。本公演は、振付家にとって作品の発展に向けた一つの通過点としての意義が大きくなりつつあるようだ。ただ「ダンスの天地」がチケット代の発生する公演である以上、足を運ぶ観客にとっての意義も重んじられるべきであろう。  上演では確かに、振付家の焦点がどこにあるかを汲み取るのが難しい気がした。とはいえ様々な角度から、振付家が関心を寄せる「権力」という大きなテーマについて考えさせられる瞬間があったので、それを綴りたい。  冒頭、振付家が観客に起立を促すとラジオ体操の曲がスタートし、その場で身体を動かすことが求められる。ほとんど全員の観客が彼の真似をして身体を動かしていたが、その中には、周囲へ同調せねばならない空気に違和感を覚えた者がいただろう。というのもその時の舞台と客席には、まさに一つの権力関係が出来上がっていたからだ。もしこの点が意図されていたのなら、観客がその状況をメタ的に見つめ直すための、仕掛けが欲しいとも感じた。  他方、「権力者の演説」を彷彿とさせる身振りには、独特な威圧感があり注目させられた。握手の手を差し出したかと思うと、出し抜くように相手の手を引き寄せる身振り、「お前を見ているぞ」と牽制するように両目を二本指で指す身振り、両手を上方へ上げる、胸をドンっと叩く…。これらの動きはどれも小さなものだが、二人のダンサーたちの、強靭な筋や筋肉に支えられた挑発的身体はよく似合っている。また前半にあった女性の発話も面白い。その言葉を理解できない鑑賞者は、その掛け声から意味を受け取ることはできないが、それには何らかの意味があるのだろう、と予感する。そのため、彼女とその踊りには常に謎めきがつきまとい、そのことがこちらの注意を引きつけた。  「コンテンポラリーダンス」であることを目指すより、広く「ダンス」を作ろうと考えてみることが、意外にも新しい何かが生まれる場合があるかもしれないと思わされた。   Umishitagi(中西ちさと) 『Umishitagi 1st GIG』  バンドのライブの典型的な構成をなぞった作品と言える。その流れを振り返ろう。  最初のシーン、暗い舞台奥に立つ女性ダンサー5人は、観客に背を向けてじっと動かない。その手前で、出演者の中で唯一の男性、今村がスタンドマイクの前で箸を弄ぶ。無音の中でパチパチと響く箸の音が、一曲目のメインとなる。  次いで会場の静かな空気を破るように、超絶ハイテンションな司会が前に飛び出した。ウミ下着のメンバー、福井である。彼女は一曲目の説明と次の曲の導入を、ダイジェスト版のように簡潔にこなしてゆく。コンサート形式を成立させる最低条件だけがサラッとクリアされてゆくような印象だ。  二曲目は「カバー曲」である。実在するJ−POPグループ、チャットモンチーのヒット曲「シャングリラ」が丸ごと引用された。この時、生音を奏でる出演者はおらず、録音された曲をBGMに、全員が思い思いのソロを踊る。  そして再び司会のトークが挿入され、最後の「ラブソング」が始まった。音楽はここでも使われない。静寂の中、靴下だけを身につけた素脚が、暗闇にボウっと浮かび上がった。幽霊のような脚が、一足分の歩幅を守りながら少しずつ舞台奥から手前へ、そして手前から奥へと戻ってゆく。ビジュアル的には子ども向けおばけ屋敷のようでキャッチーではあるが、地道な歩行の2往復を見守る間、さすがに集中力が切れてしまった。その後の展開は、足のステップに少しの変化がつき、登場人数も増えてゆくものの、同じテンションが続くので、ポストモダンダンスを観ているような気分である。終盤には足踏みの音が会場に徐々に鳴り響き、最終的には全員が揃ってスクワットのような激しい運動のユニゾンへ、というクレッシェンド的展開が進む。それにつれて、どこか宗教的儀式のような雰囲気を帯びてきたのが印象的である。  バンド形式を採用すること自体、特別なことではない。例えばアラン・プラテルがミュージシャンとコラボした『Coup Fatal』では、フォーク音楽やバロック音楽と、ダンスの融合が見事である。また昨年のKEXに招聘されたマレーネ・モンテイロ・フレイタスの『バッコスの神女−−浄化へのプレリュード』も、バンドのライブの体を成す。これらに対して本作は、楽器を使わないか、あるいは出演者が音を奏でる手段が足踏みであるという点に、特徴がある。ただ、それがかえって、本作があえてバンドのライブ形式を用いる必然性を希薄にもしていた。 敷地理 『開かれ/リヒトウンク』  この数年の間に、濁流に流された災害ごみの映像を何度もニュースで目にした。本作に登場するビジュアル世界は、多くの鑑賞者に、自然災害を彷彿とさせたのではないだろうか。例えば本作では、チラシや雑誌、三角コーンや大きなキャリーケースなどが次々と舞台に投げ込まれ、ゴミ山のような風景が徐々に舞台に現れる。ただしこの風景は、悲惨な何かを想起させるだけにとどまらない。勢い良く飛び出てくるモノの背後に、幕袖から舞台に向かってそれを投げる、裏方の存在を意識させられる。自然災害をめぐるイメージと、人の作為による現実の出来事が共に現前し、そのことが鑑賞者にとっての風景の意味を重層化させた。  モノの集積が終わると、小柄なダンサーが登場し、日常的動作を反復した。反復は徐々に加速し、やがて加速そのものが目的化するように動作が粗雑になると、不規則で荒い呼吸音の効果と相まって、彼女の動きは抜け出せないループに陥ったかのような閉塞感を醸してくる。そこへ「呼吸が自分を眺める」「呼吸のあらゆる美しい部分を見る」「呼吸に心を向けてよく見る」という声が流れる。吸って吐くこと、そして自己の内部と外部が倒錯するイメージは、彼女の身体状況を代弁するようだが、その低い声には深みと柔らかさがある。本作は、受け容れ難い現実を唐突につきつけられることへの想像をかきたてるが、あくまで感情のヒートアップは周到に避けられるのだ。  以上から分かるように、敷地は身体以外のメディアの効果的な用い方に長けている。何より、冒頭のプロローグ的シーンに登場した、不気味なオブジェはインパクト大だった。椅子の上に男がダラリと仰向けになっている。その上には何やら白くて溶け気味のアイスクリームに似た物体が載り、しかもその物体には不自然に植物が生えている。まるで地盤沈下の危機に晒された、奇妙なジャングル島だ。男の呼吸によって腹部が揺れると、謎の島はバランスを崩し、椅子の背もたれにベチャッとひしゃげた。私たちは、その一部始終をスクリーンのライブ映像で見ている。それが一体何なのか不明なまま、島の崩壊を危ぶむハラハラ感と、実際に崩壊した時に味わう負の感覚のみが尾を引く。  どのシーンを切り取ってもビジュアル面の強度は揺るぎないが、時間を隔てて登場するシーンや要素の関係性が見えにくい。作品の終わり、オブジェの一部だったはずの男が再登場し、暗転のきっかけを身振りで指示した。サスペンス映画や小説などの、物語の最後の最後に意外な人物が悪の黒幕であることが判明するような展開を思い出した。あの男は何の黒幕だったのか?物語的な解釈に誘われた。      宮脇有紀 『A/UN』   作中に同じ振付が何度も登場し、動きのボキャブラリーが多いわけではない。しかしその点が、アイディア不足とは見えないのが不思議である。人の遊びを論じたロジェ・カイヨワという学者は、ブランコやジェトコースターで体験できるような「めまい(イリンクス)」を遊びの一つの類型とみなした。身体経験は、一種の遊びになるのだ。作中で繰り返された動きは「めまい」的快楽とは言えないが、本人に快をもたらすがゆえに、繰り返したくなる遊びのようである。  例えば、腕をストレッチするように限界まで伸ばし、その状態をキープしたまま指を動かす振付は、腕や指全体で空気の触り心地を楽しむように見えてくる。反対に後半では、個々の動きを最後までやり遂げる直前にそれを中断し、次の動きへと向かう切り替えが印象的だ。これによって、踊りに独自のリズムが生まれていた。腕の動きひとつを取ってもそうである。身体の上方へあと少しで完全に伸ばし切るかと思いきや、引っ込める。動きの最小単位のつなげ方に、このような一貫性が見えてきたのが後半である。  クリエーションの出発点となったのは、おそらく個人的な経験であったのだろう。演出ノートには私的な日常的体験が列挙されており、その文体や内容からは「日常の小さな幸せ」を謳うJ-POPの恋愛曲を連想させられるところがある。振付家の着眼は多くの人々の共感を呼ぶはずだ。ただ「ダンスの自明性を問ふ。」という本公演のコンセプトに照らしても、既存の何かを覆すような疑いや鋭さの精神には欠けるという見方もできてしまう。  またコンセプトとの関係に注目する場合、他者という視点は無視できない。宮脇がおそらく「誰かと言葉のない心踊る瞬間が重なる」(演出ノートから引用)体験を創作の出発点としたこと、そして「A/UN」というタイトルがまさに「阿吽の呼吸」を思い起こさせる言葉であることから、やはり他者との関係をあえてソロダンスにする試みの面白さを期待したくなる。今回は、純粋なソロダンスという印象があったが、本人の中では他者の問題がどのように扱われたのだろう。もし本作が今後も上演されるとするなら、ドラマトゥルギーの次元においても、また身体的実践の次元においても、作品をアップデートする際の一つの切り口がここにあるのではないかと、考えさせられた。     オームアムア(中屋敷南・中瀬俊介)『白夜草』  振付家の中屋敷は、一貫してある種のよそよそしさを堅固に保ち続けた。  冒頭、たおやかに腕と腰をうねらせる彼女の後ろで、草原の映像が徐々に拡大してゆく。それは身体の背景であり続けるというより、次第に身体の存在感を飲み込んでいった。ダンサーがもつ「個」も身体性も、強調されることはない。唯一目立つのは、露出度の高い白ドレス姿と官能的な動きに代表された、いわゆる「女らしさ」であった。後半では、デジタルな世界観のイラストの変化と、中屋敷の動きとがシンクロする。彼女の動きは激しさを増してゆくが、どちらかと言えば、ここではそれに伴って動く映像の方に目を奪われた。  実は本作を見て、筆者は個人的にまず初音ミクを想起した。初音ミクとは、ボーカロイドに青緑色の髪をツインテールにした女の子のイラストを与えたキャラクターである。例えば最後のシーンに登場した爆音は、まるでボーカロイドにしか実現できない音量を象徴するよう。そしてラストシーンの演出は、キャラクターの消滅を匂わせた。  ところで初音ミクは、「非営利であれば勝手に二次創作してOK」という著作権規定が導入されたことで、ネット上で種類に富む二次創作が誕生している。すなわち、不特定多数の人物による創造にその存在を支えられた「初音ミク」の数は、無限だと言ってよい。しかし裏を返せば、まさに同じ理由から「初音ミク」は一人も存在しないとも言えてしまう。実際に中屋敷と中瀬がバーチャルなキャラクターを意識したかどうかはさておき、とにかく本作は、このような意味における空虚な存在のあり方を、あえて生身の身体で踊る試みだったように思われるのだ。  演出ノートには、「百夜草」という植物の情報が記載されている。しかし「学名」や「原産地」の名前をネットで検索しても、当の植物にはどうも行当たらない。なぜならそれは元より、実在しない架空の植物だからだ。  そして「女性らしさ」なるものも、また本来空虚なものである。フェミニズム理論家のジュディス・バトラーは、「女」という概念が社会や文化的規範によって構築されたものであり、実体に欠く虚構物にすぎない、という考えを提案した。「女」という言葉が指す同一のものなど無い。しかし個々人がそれぞれ何かを思い描き「女」という言葉を用いる発話行為が、社会に蓄積されることによって、この空虚な概念が構築されてゆく。  本作で中屋敷は、この空虚さを踊ったのではないだろうか。そもそも身体というメディアを用い「空虚」を作る試み自体、挑戦的だ。しかし実際のところ、映像との協力による「よそよそしさ」が体現されていたのである。

竹田真理

関西を拠点に活動するダンス批評家。
毎日新聞大阪本社版ほかでコンテンポラリーダンスを中心に記事や舞台評を執筆している。

通算4回目となる「ダンスの天地」vol.03はコロナ禍のもとでの開催となった。感染リスクへの対応に最大限の配慮が求められる中、状況を見極め開催にこぎつけた実行委員会の労をねぎらいたい。  劇場休業や活動自粛などの措置が舞台芸術界に与えた影響は甚大にのぼるが、アーティスト個々のレベルにおいては必ずしも負の側面ばかりでなく、自らの創作を掘り下げ、思考を成熟させる機会となったのではないか。今回のショーケース公演はその証左であったように思われる。また終演後、6組の出演者とそれぞれ話す機会を得たが、複数の振付家が創作の最大の動機として、コロナ禍における社会のあり様への疑問や批判があったことを明かしてくれた。そうした批判意識が今後どのようなレベルで舞台に反映されてくるか、見る側も視線を研ぎ澄まして臨み、この危機をサバイブする力としたい。 斎木穂乃香「林檎理論」 黒づくめの衣裳のダンサーが舞台下手に真横を向いて立ち、まっすぐ伸ばした腕の先にリンゴを一個もっている。その腕が肩を軸に正確に円を描いて一周する。くっきりとした身体の線、闇とライティングが作るシンプルな舞台に赤いリンゴがリリカルな印象を添える。タイトルからはニュートンの林檎、すなわちダンスの身体にかかる最大の負荷である「重力」が想起される。あるいは二つの物体――リンゴと身体の間に作用する「引力」である。 床を照らす円形の照明の中心にリンゴが、円の縁にはダンサー自身が配置される。舞台の闇と照明のコントラストを、桎梏の宇宙空間とそこに浮かぶ太陽系に見立てれば、リンゴと身体は太陽と地球、あるいは地球と月だろう。メトロノームの刻みは正確無比な時間の規則性を、ノートを走る筆記具の音は一心不乱に数式を解く思考の運動を思わせる。そこに入る音楽は3拍子のジンタ風で、本作のもつ数理的な感性や幾何学的な空間構成に対し、道化的な脱臼と謎めいたトーンを与えている。冒頭に聞こえるフランス語にはやはり数字に関する語句が多く含まれているが、ささやくような発語はミステリアスな雰囲気を醸し出してもいる。宇宙をつかさどる真理の探求がファンタジーに満ちた冒険でもあるような、振付家の抱くヴィジョンが空間、照明、音響、衣装、小道具の組み合わせとともに、12分の枠内に収められている。 自ら振り付け、踊る斎木は、照明の円周上を辿りながらムーブメントを繰り出していく。身体の隅々にストレッチを効かせた動きは高い運動性を誇り、各部位が異なる方向に引っ張られる動き自体に「引力」のモチーフが見て取れる。だが体を大きく使い、高速で振り出す四肢の動きは、ときに規則性からはみ出す勢いを帯び、作品の外観を内側から揺さぶる。非合理な身体の力が作品に「破れ」をもたらそうとするのだ。ここからパフォーマンスが大きく転換していく可能性もあると思われるが、最終的にはテーマに即して、破綻なくコンパクトにまとめられた印象だ。20分以内、ソロで踊るという今回の条件のもと、ちょうど葉の上の朝露がコロンときれいに結露するように、なるべくしてなったナチュラルな形態であり規模であるのだろう。その好ましさと同時に、どこかにそれを転覆する裂け目が欲しい気もする。作り手の現在がここにあるとすれば、人数を変える、フルレングスで再創作するなど異なる条件に挑み、未来へ向けた様々な展開へ向かうことを期待したい。 さきかっぱ図×吉川なの葉「テレビの前のみんなチャンネル」  ダンスの身体と映像とのコラボレーション。映像の比重は大きく、単なる背景にとどまらず作品に組み込まれている。動画編集ソフトで作成された画像のフェイク感、ポップなモチーフによる多幸感が画面に独特の「奥行きのなさ」を与えている。  ダンサーの吉川なの葉はTシャツにショートパンツのカジュアルな服装で、舞台を巡りながらラフなアクションを入れていく。日常の身体の躍動のままに歩き、走り、床を転げ、胸を大きく開いて世界と呼び合う。上空に何か飛ぶものを見つけては次々と指さす動作、あるいは両手のひらを合わせて前に突き出し仰け反る動作。動きの意味は不明だが動作は作品中、何度か現れ、意図した振付であることが分かる。ざっくりと大雑把に、大きなスケールで動くダンスには技巧的な面が全くなく、細部の洗練や審美性への志向も希薄だ。その開放された身体は何者でもあろうとしないが、吉川自身の声にならない声や叫びを発しているようにも見える。ホリゾントには動きと平行してダンサーの拡大した肖像が投影される。照明によるシルエットかと思いきや、実際は加工した動くイラスト(アニメーション)をリアルの吉川の振付と同期させている。この動画の分身がまとうのもやはり「奥行きのなさ」であり、内面を投影しないがゆえのフラットな超現実感である。さきかっぱ図(石川紗季、棚尾絵里依)による映像と吉川のダンスの合体は、内面、記憶、アイデンティティの重い軛を打ち破り、既存の枠を自ずと超えてしまう予測のつかないパワーを孕んでいる。  創作過程で3人はBLMに象徴される人種差別やコロナ禍における同調圧力について、また声を上げた人に対する無視や無言の暴力など自身を含めた社会の在り方について、多くの議論をしたという。こうした意識が本作のエンパワメントの源泉と思われるが、その思考は作品に明示されない。ダンスに政治を持ち込むことを是としないというより、言葉が足りず届いてこないのが実際ではないか。作品後半では箱の内部にカメラを取り付けた装置を用いて、舞台から客席を撮影し、視線の主客を逆転させる批評的な場面がある。その他の動作や身振りの一つひとつにも今の社会への批判や参照があるはずで、説明的である必要はないにせよ思考のプロセスが示唆されないまま、元気のいい女性によるパフォーマンスと受け取られてしまっては残念だ。要素が総合して主題を立ち上げるような構成上の工夫があっていいのではないか。 中根千枝・内田結花「移動する暮らし(荷おろし)」  神戸・新長田の商店街で「暮らし」をテーマに屋外パフォーマンスを主導した内田結花が、同じ主題を中根千枝とともにより深く耕しているシリーズ。目的をもたず定期的に稽古や創作を行う中で、その積み重ねから作品が生まれ、これまでに大阪市内で野外上演を行っている。今回の劇場公演もそうした活動の流れの中にあるのだろう。公演を最終目的として時間軸を逆算し、稽古や創作を配分していく劇場制度のサイクルを外れ、暮らすことと踊ることを等価に経験しながら「単語や風景が降り積もるように」(内田)作られたダンスである。  客電が落ちる前にまず中根が、少し遅れて内田が客席側から舞台に入る。二人が動くたびに腰に下げたカウベルが鳴り、何処からかノマディックに移動してここに来たと告げているかのようである。二人は舞台全体をゆっくりとした足取りで歩き、それぞれの振付を動く。掲げた腕、手かざし、糸巻きの動作、自転、背後に歩く、佇む、しゃがみ込む。日常の手仕事のような仕草や手つき、身体所作が踊りへとスライドし、盆踊りを思わせる平易な動きを紡いでゆく。  二人はそれぞれで動くので、口笛を吹きかわすシーンのほかは同調する場面はほとんどない。だがその動線や位置関係は空間に対し完璧に設計されていて、穏やかな日常のテンポで運ばれながらも美学と緊張を保っている。静かに佇む中根の地面から真っすぐに立ち上げた身体の存在感。また対角線を進みながら内田が広げるおおらかな腕の、鳥の滑空を思わせる鮮やかなラインが素晴らしい。  内田は舞台を巡り、床の四隅に何かを印すような仕草を行う。種蒔きにもお焼香にも見えるが、聞けば「盛り塩」であるという。何処からか辿り来て、この場所に結界を印し、荷を下ろす。やがてまた風呂敷をたたむようにその場を後にするまで、そこは束の間、住まいとなる。中根はしゃがんで地面に手のひらを当てている。降り積もる声を聴いているのか、或いは弔いの所作であろうか。暮らしの所作は儀式のそれに通じ、日々の重なりの中にある祈りや寿ぎ、悼みを形にする。カウベルのささやかな音が寄り添い、この場所でかつて営まれた生、ここではないどこかで今この時に営まれている暮らしに、我々の想像をつなげてゆく。  照明の外の暗がりで少し離れて座る内田と立つ中根が、ともにこちらを静かに見ているシーンがある。そのさりげなくも印象に刻まれる批評的な光景を見ていると、このパフォーマンスが、盆踊りとは別の回路で人はなぜ踊るのかを問い、「ダンスの自明性」から遥か遠くにあることに気付かされる。 ヲミトルカイ「異国の雨」  山本和馬が主宰するヲミトルカイはダンサーの出自もキャリアもさまざま。共通の身体言語で自律的にダンスを駆動させるというより、コンセプトとイメージに基づき場面を一つひとつ作舞しており、作品は言葉の使用とは別の意味でシアトリカルな様相を呈する。その傾向は今回、より顕著になった。ダンスの天地vol.00で上演した『Rehearsal of Heaven』では、「立てない身体」をワン・タスクとした追求が舞台上でリアルに行われた。また昨年の『家のない庭』は、実在する家屋の庭という上演場所が身体に制限をあたえ、パフォーマンスを方向付けた。今作はタイトルと当日パンフレットの短いテキストのみ。あるやなしやの微妙な情感や関係性を、碁石を一つひとつ置いていくように舞台に立ち上げる。  暗転によって4つのシーンに分かれ、一つの主題を異なる曲調で表す4つの楽章のよう。第一のシーンではダンサーの位置関係が作る「図」が、映画のワン・シーンか一幅の絵画のような情景をつくる。倒れている女(松縄春香)の背後を男(山本)が横切る。ソデへ去り際に山本は、歩く足の踵を上げたまま静止し、松縄は山本の方へ一瞬、腕を伸ばして再び伏せる。宙づりになった時間の中で、名づけ得ぬ関係の余韻/予感が舞台を浸す。もう一人の男(遠藤僚之介)がやってきて松縄の身体を引き上げると、自分の背中に負って引きずりながら去る。「砂に眠って誰かが掘り起こしてくれるのを待っている」とテキストにあり、これに対応しているのだろうか。しばらくすると松縄が、少し遅れて遠藤が再び現れるが、遠藤は松縄を背負った姿勢を保ったままだ。テキストも視覚も夢のごとくシュールで、3人それぞれの過去と現在をシャッフルし、記憶の中の心象風景としてシーンに立ち上げていく。  タイトル『異国の雨』には甘い感傷の味わいもあるが、ここでは「かつて知っていた町を訪れるとすべてが変わっていた」といった、山本作品がしばしば描いてきた不在、喪失、疎外の感覚を扱っている。3人がランダムに動きながら床へのフォール、スパイダーマンのような四つ足歩きなどを混入させるアクティブな第2シーン、ドビュッシーのピアノ曲を背景に各々の動きがところどころ同調を見せる第3シーン、そして円舞の第4シーン。全体を通して他者なる者らが徐々に互いの距離を縮め、身体が少しずつシアターからダンスへと向かう過程にも見える。しかし円舞は最後には解かれて、各々はまた異なる方向へ去ってゆく。儚く繊細な作品だが、その魅力が十分に届いて来たとは言い切れず、難解な印象を与えたのも事実。メンバーで踊り込んで、コンセプトやイメージを体現し得る、より自在な身体言語を開拓していくことが望まれる。 池上たっくん「シロイカオ」  作業服を着た二人の男の頭上には白い石膏像の頭部が浮かんでいる。二人は手を伸ばしジャンプを繰り返すが、像には届かない。文字通り“がっくり” と膝を折り床に手をつく動作を一定のテンポで繰り返す二人。動きが床にたてる音が身体のリアルな重さと徒労感を伝えるが、頭部のオブジェの奇妙さや二人が交わす「エイ」「エイ」の掛け声にはナンセンス・ギャグの風味があり、シリアスなテーマながら男性二人組のコント仕立てにもなっている。  二人の白い作業服は労働の象徴だ。幕間に舞台を掃除する二人はそのまま上演に移行、労働者でもあるダンサーの現実と舞台の時間を接続する。肉体の酷使、単純作業の反復、反復から生まれる動作のパターン。これらは振付に反映され、ユニゾンは仲間が息を合わせてはたらく姿に重なる。いわゆるガテンな仕事の多くは非正規であり、労働力として消費され、尊厳は蔑ろにされる。二人を見下ろす頭部は、過酷な労働環境を強いるネオリベ権力のカリカチュアだ。しかし振付は素朴で原理的。マチズモに流れず脱力を生かし、身体構造を理論的に捉えた動きを連ねていく。  ユニゾンを解いた後のコンタクトのシーンは、やはり重さがモチーフとなり、池上たっくんは立とうとして倒れてしまう不随意の身体を、藤本茂寿はそれを支える身体を動く。意思と乖離する身体を生きる池上、相手の身体をモノとして抱え運ぶ藤本は、ともに「苦役」を負っている。アクロバティックにも見せ得るところ、あえて萎えた身体で、カリカチュアの裏返しである、ままならさ、やるせなさを表現している。  二人の身体のイメージはプリミティブな段階の人類にも通じる。掛け声によるコミュニケーションは言語獲得以前のヒトを思わせ、ワン・アクションをつないでいく素朴で原理的な振付も然りだ。さらに、二人が置かれた状況は別役実的、もしくはゴドー的でもある。今日も明日もなく無為の時間が流れる存在論的な不条理は、労働環境にみる現実社会の不条理と並んで本作を通底するトーンだ。これをシリアスにもナンセンスにも転じて描く鍵が「シロイカオ」と表題にある、あの奇妙な白い石膏像の存在だ。終盤、その頭部がゆっくり降下してくるタイミングで、低音の不穏なリズムが打ち鳴らされ、背中合わせに腕を組んだ二人が交互に身を返しながら「エーイ」と声を発するシーンには。太古からの肉体の叫びか、あえぎの底から発される魂の声を聞くかのような底知れぬ迫力があった。重力と苦役は縁が深い。地上にある限り人間はこの負荷から逃れ得ないが、負荷を別方向へ転じた先にダンスがあるのも確かである。 髙 瑞貴 「馬脚」  訓練を積んだしなやかな身体、研ぎ澄まされた動き、強烈な印象を放つ音楽や照明が20分足らずの枠にぎゅっと凝縮されている。今回のショーケース中、身体能力とパフォーマンスの質の点で際立っており、客席で見ていたダンサー達からも称賛の声が聞かれた。しかしそれのみで見せるダンスではない。筋肉や骨格をもった生き物にとっての「歩く」や「走る」の基本動作に照準を合わせた知的な作品だ。  中央奥一点からのフットライトが空間を照射し、ヴァイオリンの弦の摩擦音が何かを駆り立てるように鳴り響く。ドラマティックな雰囲気が高まる冒頭、腿を高く引き上げた大きな一歩でダンサーが舞台に入る。たっぷりしたTシャツに短パン姿、足元は裸足。客席に体側を向け、舞台を横切り、また一点にとどまり、歩く足の実際の動きをフィルムのコマの連続のように見せていく。一足ごとに膝下を軽く前に蹴り出す歩きは馬の歩様のよう。タイトルの由来はこのモチーフにあるが、「馬脚を現す」すなわちコロナ危機において人間の本性があらわになる状況も根底にあるという。冒頭の一歩は、いななく馬が宙に高く前脚を蹴り上げた様子だろうか。床を照らすライトの中央で左右対称に腕を広げ、光と身体を対応させる。空間への鋭敏な意識が舞台全体に張り巡らされる。  低速のギャロップを繰り出す様は、歩きのメカニズムの解析のようにも映る。引き上げられる腿、柔らかい膝、前方で床を捉える爪先、地面から浮かせた踵。これに上体も連動する。首をぶるん、と震わせる動作が入ると、「馬」感が出る。最小の歩きに少しずつアレンジが入り、ムーブメントへと増幅される。動きの分析とダンスヘの展開の双方を行き来しながら、ダンサーは歩くという行為・動作を再発見している。ヴァイオリンの挑発的な響きが身体の集中と拮抗し、観る者を強く引き付ける。後半、市松模様に床を照らす照明はチェス盤をイメージしているのか、明暗に区切られた盤の一画で、こちらに背を向けた走りのシーンは、身体史の遥かな消失点へ向けて駆け抜けていくかのようだった。  隙なく構成された作品に見えるが、本番はトライ&エラーの場でもあり、即興も多いと高 瑞貴本人に聞いた。ボキャブラリーを構築し、その範囲で創作する方法も一般にあるが(カンパニーとレパートリー制度)、作品をつくることで新たな動きを開拓し、本番を重ねて変化を受け入れていく方法もあり得る。「作品」と「ダンス」は不可分であり、どちらもパフォーマティブなものなのだ。

筒井潤

2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。2014〜2016年セゾン文化財団シニアフェロー。ジャンルや形式にとらわれない様々な舞台芸術活動を国内外を問わず行っている。

 コロナ禍中に、ダンスを観られてとてもよかったし、このようにして書く依頼があったので2回観させてもらったのもよかった。…ところで、ダンスは2回見られるのだろうか?  過去の「ダンスの天地」のフライヤーにはこうある。   「ダンス」は何処からきて何処へいくのか。ダンスとは何か。   「ダンスの天地」は、その自明性を、ダンス作品とインタビュー、公演批評によって浮かび上がらせていく試みです。  最近はこの、どこから来てどこへ云々というタイトルの書籍やイベントがよく目につくようになった。過去と未来を眺める行為は現在の特権であることを意味している。と同時に、現在をとらえることがいかに困難であるかを示唆してもいる。  ダンスとは、細胞で現在を弄る行為である。この批評は、私が言葉を使って観たダンスを弄る行為である。…ところで、ダンスは見られるのだろうか? 斎木穂乃香「林檎理論」  1個の林檎に始まる。そのインパクトは大きかった。手にもつ林檎の位置を、その空間の中で極力動かさないようにしながら身体を動かすので、自ずと林檎が主人公となる。私は林檎を見つめてダンサーを見ていなかったときもあった。彼女は清潔で飾り気のない黒いワンピースを着ていた。そして教会の鐘の音が鳴る。林檎は信仰の物語に回収されていく。  そして林檎は舞台の床の中央に置かれる。彼女は林檎との距離を強く意識したダンスを踊る。必然的に円運動になる。黒い空間に赤い林檎が浮かび上がっているので、太陽系を連想させる。宗教から科学へ。1個の林檎とダンスで想像しきれないほどの壮大なイメージが広がる。ゆえに、ひとりのダンサーの踊りの切なさが際立つ。  しかし、彼女はその林檎を手に取ってかじり、咀嚼して飲み込んだ。壮大なイメージが、ひとりの人間の内臓で消化されていったのである。アダムとイヴの物語を連想させる。しかし、先ほどその林檎を使って科学(=神の否定)も表現していた。もちろん、ニュートンの林檎という例えも可能だ。私はその行為が、彼女が世界の存在を丸ごと飲み込んだように見えてドキッとした。  マルクス・ガブリエルは、世界は存在しないと言う。実際にはそんな訳はないはずだが、人間が言語と五感でものごとをいかに捉えているかを精密に辿っていく彼の論考を読むと、納得せざるをえないところに追い込まれる。…ものは「それ自体」としては存在できない。何らかの比較対象があって初めて存在し得る。その比較をするのは主体である。では、主体はこの「世界」を認識できるのか。「世界」の比較対象となるのは何か。…無(ない)。比較対象になるものがない以上、世界は存在しない。…単なる頓智かもしれないが、人が抱える漠然とした不安について考えるときの起点にはなるかもしれない。  彼女は、舞台上における彼女の存在の比較対象でもある林檎を使って、世界のイメージを表現しておいて、それを消化できることを示す。もし林檎を食べ切ってしまえば、彼女の存在も消えてしまう。そのとき唯一舞台上に残るのは、ダンスだけ、というのも頓智だろうか。  コロナ禍において、存在/不在の境界はより曖昧になってきている。彼女はダンス作品でその問題を問うていたように思う。しかし何よりも面白かったのは、2回上演して、2回とも林檎をかじり、最後に彼女が客席に視線を送ったことだった。 さきかっぱ図×吉川なの葉「テレビの前のみんなチャンネル」  映像が大きい。まず舞台奥面に映し出されたのは街の風景。都会過ぎず郊外過ぎずの絶妙なリアリティー。そこに晴れの日の公園を思わせるSEが聞こえる。少し幸せ過ぎるように思えたが、不気味にも感じられる。  それを背景に吉川なの葉は踊る。映像の大きさが彼女の身体の細さや小ささを強調する。関節の大きさが気になった。膝のそれが目立つ衣装であった。その印象も相まって、タイトルにあるように、テレビの前で大人の視線を遮って遊ぶ子どものように見えた。彼女の遠くを指差す仕草とその先を見つめる視線、そして箱に穴を開けて覗き込むパフォーマンスが印象的だった。人間は、大人になると日常においては中間的な距離のものにしか視線を送らなくなる。逆に、子どもははるか遠くに小さく見えるものに興味を持ったり、本当に目の前のものを凝視したりする習性がある。テレビから、子どもは原風景を覚えるか視聴覚への直接的な刺激を受け、大人は無限の購買意欲を喚起する情報を得る。スクリーンに映し出される砂嵐のような映像とフィンランドの電子音響系のような音楽は、テレビが本来は電子による光を発しているだけの箱であることを表し、エクスペリメンタル・ポップの曲にチープなハンバーガーのアニメーションは、親しみやすさと不信感が隣り合わせになっている大量消費社会の象徴である。  そして、ダンサーの“影”と、ダンサーの“影の映像”が映し出される。そこでハッとさせられた。大人になって近くと遠くを見なくなり、中間距離にしか視線を送らなくなったと書いたが、より正確に言うならば、大人になって見ている全ては影のような像であり、実在ではない。プラトンの洞窟の比喩である。このテレビにまつわる表現を通して、人間の意識の発達がいまとなってはいかに映像と無関係でいられないかに気づかされた。コロナ禍を経て、その傾向はますます強くなるのだろうか。そのような不安に襲われた。  大きなスクリーンからの逆光と暗めの照明の中で速い動きを繰り出すことによって、ダンスが詳らかには見えない時間があった。そして照明が明るくなると、違和感を感じた。さっきまで見ていたダンスと少し印象が異なっているのである。私は見えにくいダンサーの身体の有り様や振りを、想像で補って完成させていたのだ。照明が暗いときは、彼女が踊っているのを見ていたのではなく、像としての彼女のダンスを鑑賞していたのである。 中根千枝・内田結花「移動する暮らし(荷おろし)」  いつのまにか始まる。観客も利用する入り口から、ふたりの踊り手が入ってくる。ふたりの腰にカウベルがある。カランコロンと鳴る。舞台に上がり、低い姿勢になって床に片手を置く。私は、踊り手がただそうするだけでリノリウムが敷かれた舞台の床を「地」ととらえ、その行為には祈りを見た。そして自ずと風が吹いているように感じた。そもそも、腰にカウベルを下げているのだ。カウベルは鳴る。ふたりが鳴らしているのではない。しかし、腰に下げた時点で、ふたりは鳴る状態をつくっている。カウベルの音は鳴らされているのだし、鳴ってもいるのだ。自然を呼び込みつつ、自然に任せる。これほどに美しく整った摂理があるだろうか。  ふたりの踊りはその摂理の延長線上にある。ドラマを煽る大きな展開はない。淡々とした動作はまるで農作業のように抑制されており、日々の愛おしい営みのリズムを刻んでいる。ふたりだけが解り合っている世界が確かにあることは疑いようもない。これはどうやら鑑賞者に向けてつくられた踊りではなさそうだ。例えば宗教行事としての踊りは、観光客や劇場の観客に向けて上演する場合、それはやって見せていると同時に、観てもらうための工夫があったりする。    ほとんどの参詣者は踊りを無視して、踊り手たちが踊っているすぐそばをまるで何事もないかのように通り過ぎる。踊りに一瞥もくれない者もいる。ここでは、パリスが神聖であるというよりも、パリスは神聖なものに捧げられる「供物」なのである。供物は捧げられるものであり、鑑賞されるものではない。これを「鑑賞」している少数派は、子供たちと数少ない大人たち、それにわたしを含めた数人の外国人である。 〔『身体の臨界点』石井達朗 より〕  私がふたりの踊りにもっとも関心を持ったのは、近代劇場の中でありながらダンスを鑑賞することを強制せず、本来のふたりにとっての目的を舞台の上に乗せたところである。消費されることも辞さない「表現」をするわけでもなく、日頃やっていることをただやって見せている。しかも別に観てもらえなくてもかまわなさそうなのだ。私はふたりが大切にしているプライベートな時間を覗き見しているような気持ちになって、照れ臭く思うことさえあった。踊り終えた後の声、「ありがとうございました」は、卑下でも虚勢でもない「お粗末様でした」の響きだった。これはそう簡単ではない。 ヲミトルカイ「異国の雨」  絵画的であった。例えば中空を漂うスモークがそうだ。舞台を別世界として見せる。そしてダンサーが舞台袖の際に止まる。身体の半分が見えていて、半分が消えている。それがフレームの存在を強調する。登退場も幾度となくあった。その度に何らかの展開がある。いや、観る側が勝手にそれを展開と解釈しているだけかもしれない。ダンサーの顔が客席に向かって正面向きかあるいは横向きになることが多く、それが平面の印象を与える。いずれにせよ、絵画的なフレームを駆使して繰り広げられるドラマである。  「ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる−−演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。」とは、演出家ピーター・ブルックのあまりにも有名な言葉である。多くの人はこのシンプルなフレーズに魅惑されがちだが、「なにもない空間」というのにはそれなりの構造や設え、そして観る側が約束事を知っている必要がある。ゆえに、この言葉はそれほど単純ではない。“なにもない”のお膳立てとその共通認識がなければ成立しない。現在パフォーミングアーツの創作者は、長い間多くの人たちを洗脳し続けたこの言葉をどうとらえるかが問われている。この『異国の雨』が表現しているのは、男女の愛のように見える。もつれ合う熱情というか、ぎこちなさの哀愁というか。実にナイーブで、だからこそ美しく儚い物語が浮かび上がる。問題は、劇場の近代的な機構がなければそれを表現し得なかったであろうと思われる点だ。この男女のドラマは、舞台袖の存在によって生まれたのである。  一方、そのドラマを内側から破壊しようとするダンスもあった。遠藤僚之介は重心を低くして地を這いながら荒々しく踊る。その野性味には物語からはみ出そうな勢いがある。しかし人間ではないなにか他の動物を演じているわけではない。登場人物として踊りながら、物語から離脱しようとしていた。また、山本和馬が観客席と舞台の間に引かれていた境界線を跨ぐようにしてしばらく黙って倒れている場面があった。コロナ禍における劇場の、観客に飛沫がとどかないようにという配慮から生まれたルールの息苦しさを表していた。  近代劇場があるおかげで安全に踊れるし、その機構によって物語が生まれ作品にもなるのだが、そこから抜け出てしまいたいという欲望もあるという、アンビバレントな想いが伝わる上演だった。 池上たっくん「シロイカオ」  前の演目が終わって次の演目へ移る転換のとき、大抵は黒を基調とした衣服を着た舞台スタッフがモップ等で舞台床の汗やほこりを拭う。そこに、同じ労働をしているのだが、白いツナギを着た人が二人いる。何かがあるのだろうと思った。やはり『シロイカオ』のダンサーだった。  上から白い石膏像がゆっくりと降りてくるが、高いところでとまる。それを藤本茂寿が「エイ」と言いながら指差す。池上たっくんの顔の石膏像。助走をつけて飛んだり、一人が台になってその上に立ってみたりと、あらゆる方法で何度もそれを取ろうと試みるが、手が届く気配もない。…これらがコミカルに、道化のように演じられる。  そのあと、時にはダイナミックに、そして時には繊細に、二人のダンスが繰り広げられる。貫かれていたのは、それがまるで労働のようであった点である。軽やかさよりも重みが強調されている。しかし二人の動きにはいかにも労働といった要素はほとんどない。誰もがイメージしやすい職種のパントマイムをしているわけでもなく、バイト先での動きをトレース、といった類のことでもなさそうである。にもかかわらず、私は労働を感じた。その労働は大変そうだが、二人が辛くていますぐ逃げ出したいといったようには見えない。  コロナ禍において多くの舞台芸術関係者が活動の存続を社会に訴え、国からの援助を求めたりクラウドファンディングを実施したりした。そこでは必ず芸術文化の必要性がアピールされていた。しかしそれはあまりにもの大前提ではないだろうか。その大前提から訴えなければならないのかという心細さ、そしてその声を大きくすればするほど嘘っぽく聞こえてしまうかもしれないというジレンマに苛まれ、舞台芸術関係者の身体と声は強張ってしまった。防護服にも見える衣装に身を包む二人のダンスは、その強張りへの抵抗のようだった。そして「ダンスは仕事」という、なぜだか言い出しにくいことになってしまっている事実をつきつける。労働と生きる喜びは一緒であってよいはずだ。遠慮することはない。  最後、石膏像が降りてきて、床に着いた。ずっと宙に浮いていたので、「ゴンッ!」という音に想像以上の重さを知り、驚く。それを手に取る池上たっくん。自分探しの物語で終わるのかと思ったら、石膏像の中からエイ(のぬいぐるみ)が出てくるというオチ。ダジャレで終わらせるというところに、道化の労働の悲哀を見た。 髙 瑞貴 「馬脚」  高瑞貴が熱心に筋力トレーニングをしているかどうかは知らない。しかしかなり鍛えられていることはわかる。私には、ダンスのために必要な筋肉のみが鍛えられているとも思えなかった。筋肉が先立っていた。体幹の鍛えられ具合には感動さえした。体幹を軸に動きをピタリと止めた瞬間、全ての時間が止まったかと思えるほどだった。  彼女のダンスは、近代的な筋トレをよかれと思って続けていたら想定以上にハイスペックな身体になり、それを持て余してしまい、どうしようかといろいろ動いてみているうちに、自身の想像力を刺激する動きができてひとり喜んでいる、というように見えた。足を見る。動かしてみる。馬の脚のように見えてきたから、それに従って馬の脚のように動かしてみる。楽しくなってきてその動きを他の筋肉に広げていってみる。すると全身が馬の脚になったように波打つ。それをまた面白がる…。  照明によって舞台上に小さな四角形が次第に増えていく。彼女はそれに反応しながら移動する。私はその演出に、ひとり楽しんでいるダンサーがいるということだけでなく、ソーマトロープやフェナキストスコープといった原初的なアニメーションを連想した。もともと人はそれを目の錯覚だとわかっていたはずだ。錯覚であることも含めて感動していたのである。しかしいま、動画を見る鑑賞者はそれをテクノロジーに基づく錯覚だという認識をいちいち差し挟むだろうか。そしてそれを差し挟まないということの危うさについて考えるだろうか。  『馬脚』は、高瑞貴が自身の身体に備わっている筋力と技術を確認しながら、それによって生まれる現象を自ら進んで錯覚し、想像し、ひとりで楽しむというダンスに対するフェティシズムを、閉じたままにせずに丸ごと作品化したものだ。それによってダンス作品における“表現”が馬脚を現した。ダンス作品を観た観客は、それが表現するものだけに感動するのだろうか。スタンダードナンバー「サマータイム」の使い方は、個人の切実な心情の表出であるともに、演出による共感の表現への疑義の提示にもなっていた。観客は、ダンサー個人の存在やその思想、そして身体の技術にも感動し、演出にも心を動かされる。ことをややこしくさせているのはダンスではなく、ダンス“作品”である。彼女は一人でもなく独りでもない、“ひとり”という属性のない状態を最大限に活かしてその問いを改めて観客に投げかけた。